第2話

3、

「あそこ……で、俺たちは……どうなって……しまっ……た……」

 喋りながら呂律が回らなくなっていることに、タルス自身は気づいていなかった。そして、己れのうちに芽生えた奇妙な心持ちに戸惑っていた。それは、なぜ俺は目の前のドレリス女を殺さないのだ、という自問であった。グラッダがドレリス人であることは百も承知、疑いようもない事実であるのに。その思いは、強烈な感情の奔流となって、タルス本来の意識を押し流そうとしていた。感情の名は、憎悪である。

 この世界で初めて意識を取り戻したとき、すでにタルスの頭の中には、明確な記憶が根を張っていた。一度とて経験したことのないはずなのに、その記憶にはほとんど物質的なまでの、確固たる手触りがあった。

 何千年もの往古むかし、こことは異なる次元、異なる地に、二つの都市国家が在って、互いにしのぎを削っていた。ドレリスとサバルシカ、二都市のいさかいの所以は、彼らの戴く二柱の都市神の小競合いが発端であった。

 兄弟神である二柱は、自分たちの代わりに互いの民びと同士を争わせた。神々にとって人間など将棋遊びの駒にすぎなかった。しかし、決着はつかず、移り気な神々は、欠伸あくびをひとつ洩らすあいだに、すっかり飽きてしまった。尤も、神が欠伸をする間に、人間の世界では何百年もの月日が流れていたが。

 そのころになると、都市民たちは、ひたすら互いを憎み合うだけになっていた。何世代も代替わりを繰り返し、切欠きっかけである神々の名前すら忘れ果て、憎しみだけが伝統として受け継がれていたのだ。勝手な神々は、この事にたいそう憤慨した。それで彼らを信奉する部の民を壁画の中の小世界に放り込み、宇宙の終わりまで、あい争わせるよう仕向けた。そうして自身らはさっさと別の宇宙に去ってしまったのだった。

 残された橋の民たちは、絵に自我を吸い取られて、何千年ものあいだひたすら殺し合った。闘いを続けていけば、人は死に欠員が出る。しかし神々は周到であった。遺跡は云わば疑似餌として用意されたのだ。次元を跨いで移動し、財宝をちらつかせて人を呼び寄せ、戦士の補充をしているのだった。

 ごく自然に、タルスは両腕をそろそろと伸ばしていった。グラッダをくびり殺さんがためである。

 一方、グラッダもまた、タルスへの憎しみを沸々とたぎらせつつあった。このサバルシカ人が同じ部屋に居ることに耐えられなくなっていた。女用心棒は、タルスが人間ゾブオンではなく、ルルドとモーアキンの間の子であることを知っていたが、にも拘らず、サバルシカ人とは共に天を戴かざると云わざるを得なかった。

 タルスの伸ばした手を、グラッダが掴んだ。二人の視線が交差した。と、グラッダが、掴んだ腕を引き寄せた。そして、荒れた唇を、タルスの唇に押しつけたのだった。ニュルリと、軟体動物のような舌が挿し込まれ、タルスの舌を絡め取った。

 このささやかな不意討ちに、タルスはすっかり面食らった。

 接吻を離したグラッダが、タルスをマジマジと見詰める。その眼差しは、あくまでも正気そのものである。

「また……支配されつつあるぞ、我等は……」

 グラッダの警告に、タルスはゾッと全身の毛がそそけだった。確かにたった今、タルスは己れを見失いつつあった。そして、橋の上で闘う兵士たちは、この状態を、ひたすら続けているのだと思った。ここには時の流れ、という観念が存在しないのだ。ここで行われている闘いは、何千年の往古むかしから延々と陸続し、しかも当事者たちはいっかな、その虚しさに気づいていないのだった。

 グラッダの次の挙動に、さらに度肝を抜かれた。女用心棒は、わずかに躰を被っていた布をすべて自分で剥ぎ取ったのだった。

 傷だらけの小ぶりな乳房や、筋肉質の脚や、下腹部の薄い翳りが露になった。

たかぶり、を、消すん、だ」

 グラッダが上擦った声で囁いた。そうして、タルスの太腿に触れると、鼠径部に向け手を這わせた。女用心棒が、タルスの肉茎に辿り着いた。

 自分でも信じられないほど、タルスのそれは、熱く、硬く、嵩張かさばっていた。

 タルスは、グラッダの頸を狙っていた手を、衝動的に、乳房に持っていった。荒々しく摘まむと、グラッダは甲高く呻いたが、それは、身震いするほど、情欲にまみれた声だった。

 グラッダが仰向けに寝てタルスを導いた。タルスはさかった狗のごとくグラッダに覆い被さった。そして躰ごと沈める勢いで、分身を、彼女の深奥に潜り込ませた。蜜液が溢れる秘所が、底無し沼のようにタルスを呑み込んでいく。たちまちタルスは、我を忘れ、腰を遣った。グラッダの両足が、忍冬すいかずらつるのように、タルスの腰にしっかりと巻きついた。

 それは情愛に彩られた営みとは、程遠かった。生理的な昂りをぶつけ合い、鎮めるための、やむにやまれぬ儀式に近いのだった。タルスがしたたかに精を放つと、グラッダも立て続けに昇りつめたようだった。

 二人は、折り重なって、荒い息を吐きあった。


4、

 絵の中の世界が、神々のわざーー或は呪いーーによって創られているのならば、タルスたちが僅かなりとも正気を保っていられるのは、何故だろう。何か理由があるのか、偶々なのか。推し量ったところで詮のないことだが、二人が絞り出した答えは、これもまた、神々の企みの範疇ではないかというものだった。神々の織り上げた運命の絵柄に、すでに二人という変則な存在が含まれているのではないか。無論、そう考えていること自体が、絵の魔力の作用でないという確信は持てない。

 だとしても、かまわなかった。ここはゾッとしない世界だ。絵の外に戻れるならば、何であれ利用すべきだ。

 二度めの、ゆっくりとした交わりの中で、互いの考えを引き出し合う二人の会話は、まるでねや睦言むつごとのようであったが、実際にはもっと殺伐とした、はかりごとを練る軍議に似た何かなのだった。

 

 二人は夜中のうちに、動き出した。曙光しょこうーーというより、あの奇怪な赤い光ーーを浴びたら、また心を操られるのではないかと怖れたのだ。いまひとつには、時が経ち、遺跡が別の次元に移動を開始してしまうのでは、と警戒したからだ。何を契機に転移が起こるのか、誰も知らない。補充が完了したのかも分からない。時機を測れないことが、二人を焦らせてもいた。ことが首尾よくいったとしても、見知らぬ世界に連れていかれてしまったのでは、堪らない。絵の中から出た上で、そこが元々の世界である必要があるのだ。

 狙いは定まっていた。何よりも怪しいものーー橋の中央に浮かぶ浮遊体である。壁面に埋め込まれていた紅玉と同じ形のそれが、この世界の成り立ちに関係ないとは思えない。無論、浮遊体に手を掛けたからといって、元の世界に戻れるかどうかは判らなかった。が、何もせず無抵抗に流されるのも、業腹である。

 二人は、紅玉をいかに宙から引き摺り落とすか、手管を思案した。

 神々の創ったこの世界は、元の世界の完璧な似姿であった。建物も調度も、食糧や草花、水や火や風でさえも、〈実体〉を持っているのだ。まさに神のみぞ成し得る業である。

 ならば、その完璧さを使わない手はなかった。当たりをつけた家々を幾つも漁り、最低限の材料を揃えた。

 試みたのは、いしゆみ作りである。

 グラッダは、南方の山岳民の出であり、そこでは弩弓は狩猟の道具として日常的に使われていた。したがって女用心棒は、それを組み上げることが出来た。

 ただ、作ろうとしているのは、弓兵が手で持つような代物ではない。据え置き型の、弩砲どほうに近いものを目指すつもりだった。さしものグラッダも、原理を知っているだけで上手に組み上げることが出来るか、不安は隠せない様子である。しかし、やるしかない。

 星明かりなどはなく、肝心の浮遊体の位置は、昼間の記憶から推し量るしかなかった。標的までの距離と高さで、設置場所は、サバルシカ人の領域に在る、とある広壮な邸の、平らな屋根の上になった。そこにかき集めた材料を持ち込んだ。篝火かがりびで屋根の上を照らしながら、グラッダの指示で、木材を切り、本体を組む。一から全部を作る余裕はないので、頑丈そうな脚付きの整理箪笥を土台にして、そこに引き剥がした板材で作った弓を寝かせ、水平に取り付けた。弦はほどよい太さの麻縄を用い、矢には頑丈で真っ直ぐな真鍮の燭台を選んだ。

 二人は、一心に作業に没頭したが、それは、沸き上がる不安と、僅かな希望がせめぎあっているからだった。手を動かしているあいだは、元の世界に戻れるか否か、心が再び絵に取り込まれて自我を失ってしまうかどうか、考えずに済むからである。

 夜明けごろ、いしゆみは完成した。夜明けといっても、太陽はなく、鈍色にびいろの陰気な空が、ただ白く明けていっただけである。しかし、標的の浮遊体はハッキリとわかる。いましばらく経つと、紅玉は徐々に光を放ち、明滅し始める。できればその前にケリをつけたかった。

 二人は、弩砲の位置を動かし方角を決め、幾つかの木材をかませて高さを調整した。

 真鍮の燭台は、手元に六本。

 まずは、試しに一本、撃つことにする。

 タルスは弓弦ゆづるを掴み、ぎりぎりと引き絞った。この大きさならば、通常、複数人か、梃子を用いた機巧がいるであろうが、タルスが気息を整え満身の力を込めると、弦は軋みながら引っ張られ、弓はたわんでいった。充分に引いてから、留め金に掛けた。

 射手を務めるのはグラッダである。燭台の矢をつがえ、慎重に狙いを定める。息を詰め、ゆっくりと引き金を引いた。

 思いの外、大きな音を立てて、矢が飛び出した。無事に発射されたことは喜ばしかったが、標的からは大分、離れている。グラッダは軌道を見定め、さらに弩砲に微調整を施した。残り五本。

 それから試行錯誤に、三本を費やした。都合四本目にして、射線に標的を捉えた。矢はほんの僅か、右に逸れただけだった。グッと期待が高まった。

「次は、当てる」

 グラッダが、自信をみなぎらせて云い切る。タルスは頷き、再び満身の力で弦を引いた。そのとき、それが起こった。

 いつの間にか屋根に上がった兵士が、喊声かんせいとともに、タルスたちに殺到してきたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る