第2話
3、
「あそこ……で、俺たちは……どうなって……しまっ……た……」
喋りながら呂律が回らなくなっていることに、タルス自身は気づいていなかった。そして、己れのうちに芽生えた奇妙な心持ちに戸惑っていた。それは、なぜ俺は目の前のドレリス女を殺さないのだ、という自問であった。グラッダがドレリス人であることは百も承知、疑いようもない事実であるのに。その思いは、強烈な感情の奔流となって、タルス本来の意識を押し流そうとしていた。感情の名は、憎悪である。
この世界で初めて意識を取り戻したとき、すでにタルスの頭の中には、明確な記憶が根を張っていた。一度とて経験したことのないはずなのに、その記憶にはほとんど物質的なまでの、確固たる手触りがあった。
何千年もの
兄弟神である二柱は、自分たちの代わりに互いの民びと同士を争わせた。神々にとって人間など将棋遊びの駒にすぎなかった。しかし、決着はつかず、移り気な神々は、
そのころになると、都市民たちは、ひたすら互いを憎み合うだけになっていた。何世代も代替わりを繰り返し、
残された橋の民たちは、絵に自我を吸い取られて、何千年ものあいだひたすら殺し合った。闘いを続けていけば、人は死に欠員が出る。しかし神々は周到であった。遺跡は云わば疑似餌として用意されたのだ。次元を跨いで移動し、財宝をちらつかせて人を呼び寄せ、戦士の補充をしているのだった。
ごく自然に、タルスは両腕をそろそろと伸ばしていった。グラッダを
一方、グラッダもまた、タルスへの憎しみを沸々と
タルスの伸ばした手を、グラッダが掴んだ。二人の視線が交差した。と、グラッダが、掴んだ腕を引き寄せた。そして、荒れた唇を、タルスの唇に押しつけたのだった。ニュルリと、軟体動物のような舌が挿し込まれ、タルスの舌を絡め取った。
このささやかな不意討ちに、タルスはすっかり面食らった。
接吻を離したグラッダが、タルスをマジマジと見詰める。その眼差しは、あくまでも正気そのものである。
「また……支配されつつあるぞ、我等は……」
グラッダの警告に、タルスはゾッと全身の毛がそそけだった。確かにたった今、タルスは己れを見失いつつあった。そして、橋の上で闘う兵士たちは、この状態を、ひたすら続けているのだと思った。ここには時の流れ、という観念が存在しないのだ。ここで行われている闘いは、何千年の
グラッダの次の挙動に、さらに度肝を抜かれた。女用心棒は、わずかに躰を被っていた布をすべて自分で剥ぎ取ったのだった。
傷だらけの小ぶりな乳房や、筋肉質の脚や、下腹部の薄い翳りが露になった。
「
グラッダが上擦った声で囁いた。そうして、タルスの太腿に触れると、鼠径部に向け手を這わせた。女用心棒が、タルスの肉茎に辿り着いた。
自分でも信じられないほど、タルスのそれは、熱く、硬く、
タルスは、グラッダの頸を狙っていた手を、衝動的に、乳房に持っていった。荒々しく摘まむと、グラッダは甲高く呻いたが、それは、身震いするほど、情欲にまみれた声だった。
グラッダが仰向けに寝てタルスを導いた。タルスはさかった狗のごとくグラッダに覆い被さった。そして躰ごと沈める勢いで、分身を、彼女の深奥に潜り込ませた。蜜液が溢れる秘所が、底無し沼のようにタルスを呑み込んでいく。たちまちタルスは、我を忘れ、腰を遣った。グラッダの両足が、
それは情愛に彩られた営みとは、程遠かった。生理的な昂りをぶつけ合い、鎮めるための、やむにやまれぬ儀式に近いのだった。タルスがしたたかに精を放つと、グラッダも立て続けに昇りつめたようだった。
二人は、折り重なって、荒い息を吐きあった。
4、
絵の中の世界が、神々の
だとしても、かまわなかった。ここはゾッとしない世界だ。絵の外に戻れるならば、何であれ利用すべきだ。
二度めの、ゆっくりとした交わりの中で、互いの考えを引き出し合う二人の会話は、まるで
*
二人は夜中のうちに、動き出した。
狙いは定まっていた。何よりも怪しいものーー橋の中央に浮かぶ浮遊体である。壁面に埋め込まれていた紅玉と同じ形のそれが、この世界の成り立ちに関係ないとは思えない。無論、浮遊体に手を掛けたからといって、元の世界に戻れるかどうかは判らなかった。が、何もせず無抵抗に流されるのも、業腹である。
二人は、紅玉をいかに宙から引き摺り落とすか、手管を思案した。
神々の創ったこの世界は、元の世界の完璧な似姿であった。建物も調度も、食糧や草花、水や火や風でさえも、〈実体〉を持っているのだ。まさに神のみぞ成し得る業である。
ならば、その完璧さを使わない手はなかった。当たりをつけた家々を幾つも漁り、最低限の材料を揃えた。
試みたのは、
グラッダは、南方の山岳民の出であり、そこでは弩弓は狩猟の道具として日常的に使われていた。したがって女用心棒は、それを組み上げることが出来た。
ただ、作ろうとしているのは、弓兵が手で持つような代物ではない。据え置き型の、
星明かりなどはなく、肝心の浮遊体の位置は、昼間の記憶から推し量るしかなかった。標的までの距離と高さで、設置場所は、サバルシカ人の領域に在る、とある広壮な邸の、平らな屋根の上になった。そこにかき集めた材料を持ち込んだ。
二人は、一心に作業に没頭したが、それは、沸き上がる不安と、僅かな希望がせめぎあっているからだった。手を動かしているあいだは、元の世界に戻れるか否か、心が再び絵に取り込まれて自我を失ってしまうかどうか、考えずに済むからである。
夜明けごろ、
二人は、弩砲の位置を動かし方角を決め、幾つかの木材をかませて高さを調整した。
真鍮の燭台は、手元に六本。
まずは、試しに一本、撃つことにする。
タルスは
射手を務めるのはグラッダである。燭台の矢をつがえ、慎重に狙いを定める。息を詰め、ゆっくりと引き金を引いた。
思いの外、大きな音を立てて、矢が飛び出した。無事に発射されたことは喜ばしかったが、標的からは大分、離れている。グラッダは軌道を見定め、さらに弩砲に微調整を施した。残り五本。
それから試行錯誤に、三本を費やした。都合四本目にして、射線に標的を捉えた。矢はほんの僅か、右に逸れただけだった。グッと期待が高まった。
「次は、当てる」
グラッダが、自信を
いつの間にか屋根に上がった兵士が、
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