橋の上にて

しげぞう

第1話

1、

 そして気がつくとタルスは、凍てついた払暁の、石造りの街並を行軍する隊伍たいごに紛れ、丸く摩耗した石畳を踏みしだいているのだった。戦闘は日の出とともに始まり、日没まで続く。街路を埋め尽くす軍卒ぐんそつどもはたけり狂って、身を切るような寒気の中、吐き出す息は煮えたぎ噴泉ふんせんのようだった。脛当すねあてや、鎧の小札こざねや、槍の石突が刻む一糸乱れぬ律動は、戦場いくさばに赴く戦士たちの心音と重なり、つわものたちを、いっそう鼓舞するのであった。

 タルスもまた、鉄兜を目深に被り、円楯まるたてを携え、短槍を握り締めていた。ヴェンダーヤの修行僧の邪行を修めているタルスは、常ならば寸鉄も帯びずに闘うのだが、今は己が得物えものを握りしめていることさえ、自覚してはいなかった。瞼を上げてはいても何も見てはおらず、聴いてはいても何もってはいなかった。ただ頭蓋の内を占める詞に支配されていた。ドリレス人を殺せ、という詞である。

 

 その都邑まちはーーいや、その世界は、ひとつの巨大な橋梁きょうりょうであった。何リーグにも及ぶ幅と長さを持つ橋桁はしげたの上に築かれた都邑が、世界の全てであった。どのような力学的な構造が橋を支えているのかは、民びとの預かり知る処ではなかった。というより、その都邑の住人は、たった一つの目的しか理解していないのだった。すなわち、橋を二分する敵対勢力を滅ぼすことである。

 タルスが居るのは、橋を貫通する大通りを往く隊列であったが、橋の此方こちら側は、サバルシカ人の支配領域であった。一方、進行方向の彼方かなたにあるのは、ドリレス人の陣営である。二つの勢力は、広大な橋桁の真ん中、そこで舗道の石も建物の色も明らかに変わる、文字通りの境界線を挟み、攻防を繰り広げていた。

 進軍につれ、街路も円柱も戦士たちも、鮮紅色の光に染められていったが、それは実際は朝焼けによるものではなかった。

 行く手の、境界線のちょうど真上の中空に、鈍色にびいろの荒天を背景にして、心臓によく似た無気味な浮遊体が、明滅を繰り返していた。この世界に太陽は存在せず、空に在るのは、その浮遊体のみである。浮遊体の放つ禍々しい光輝は、まるで戦士たちの群れに血飛沫ちしぶきを撒いているようであった。

 やがて、行く手から、自軍の挙げる喚声が遠雷の如く轟いてきた。前衛が、とうとう怨敵ドリレス軍と衝突したようだった。金属を打ち合う鈍い響きと、怒号と、悲鳴が混じりあったどよめきが、辺りを満たした。

 大通りの両軍は共に、最も単純な、密集した縦隊であって、このいくさは、あらゆる軍略とも戦術とも無縁の、〈境界線〉を挟んでの、力と力の押し合い、潰し合いなのだった。

 乱戦はすぐにタルスの場所に達した。ドリレス人の小兵が、タルス目掛け、半ば駆け足のような突撃を敢行した。タルスも雄叫びで応えた。円楯で刺突を弾くと、逆に、短槍で敵兵の腹を思い切り突いた。ドリレス人は、ゴブリ、と血反吐を吹いた。しかし、その後には不如意な結果が待っていた。

 左前方の敵兵が、味方の棍棒に頭蓋骨を砕かれ、弾かれたように横転した。そいつが、タルスの槍を腹から生やしたドリレス人にぶつかり、短槍が持っていかれたのだった。皮革の甲冑を深々と貫いたそれが、抜けずに転倒に巻き込まれたのである。タルスはやむなく槍を放棄し、抜刀した。

 間を置かず、躰ごとぶつかってきた対手の斬戟を、タルスはまともに受け止めた。タルスと変わらぬ体躯の戦士である。今度の相手は強敵だった。二合、三合と刃を交えたが、互いの技倆は伯仲しており、四合めで動けなくなった。

 相手がギリギリと鍔迫り合いを仕掛けくる。膂力に任せて押し切ろうとしているのだ。実際、引いてしまえば、そのまま両断されかねなかった。土壇場の、生死を別つ刃と刃の向こう、体重を乗せて力押しに肉薄する、角付きの兜を被ったドリレス人と目が合った。

 その瞬間、タルスの心に波紋に似た変化が起こった。

 まるで松明の焔が隙間風で揺らぐように、今の今までタルスを支配していた燃え盛る憎悪が、揺らいで弱々しくなった。代わりにいつものタルス自身が戻ってきた。ことばが口を衝いて出た。

「グラッダ、お前なのか? 俺だ! タルスだ!」

 しかし、その女戦士は目を血走らせ、いっかなタルスを認識した様子ではなかった。白刃は、ググッとさらに押し込まれ、タルスの腕に触れんばかりとなった。

 ここでタルスは、決死の体術を使った。身を落として、力を受け流しに掛かったのだ。グラッダはつんのめり、タルスに覆い被さる格好になった。すかさずタルスは、自ら後ろの地面に転がった。背中を地に着け片足でグラッダの腹を押すように蹴った。グラッダは期せずして前転し、タルスを飛び越えて投げ出された。

 手練の戦士グラッダは、素早く起き上がり、追撃に備えたようだった。が、タルスの方が速かった。鋭く踏み込むと、鞭のようにしならせた当て身が死角から迫り、グラッダの顎を捉えた。一瞬にして意識を絶たれた女戦士は、その場に崩折くずおれた。

 

2、

「ーー我らは、どうなってしまったのだ?」

 目覚めたグラッダの詞を聞いて、タルスはひとまず愁眉を開いた。グラッダが、タルス同様、正気を取り戻しているようだったからだ。タルスは竈にかけていた素焼きの壺を差し出した。温めた葡萄酒が入っていた。グラッダは上半身を起こして、壺を受け取った。

 葡萄酒を啜るグラッダは、寝具にくるまれてはいたが、短い布地の上衣と下帯だけの半裸姿だった。甲冑類も剣も、タルスの手によって取り除かれていた。無論、けしからぬ目的ではない。グラッダの意識がまだ先程のままならば、再び闘わねばならないからだった。

 闇の帳が下りた夜の都邑まちは、墓所のごとく静まり返っていた。浮遊体は、光るのを止め、不気味な姿はいま、闇に溶けている。タルスが覗いた範囲では、兵士たちは皆、適当な建物に引き上げて、食事や武器の手入れをして過ごしていた。しかしその目は虚ろで、人形芝居の役割を黙々とこなす傀儡あやつりにんぎょうのように見えた。朝になればまた、代わり映えのない、血腥ちなまぐさい一日が待っているのだ。

「分からん……。が、想像がつかんこともない」

 タルスは、考え考え、切り出した。

 グラッダは、用心棒稼業の女だった。タルスが、さる都邑まちの口入れ屋から、隊商の警護を引き受けたとき、同時に雇われたのがグラッダだった。恙無つつがなく雇われ仕事を終えたあと、女用心棒は、タルスを郊外の荒れ野にいざなった。噂によれば、ペレンス野というその荒れ野で、つい先般、発見された古代の遺跡には、まだ未盗掘のお宝が眠っているという。

 眉に唾をつけつつもタルスは、誘惑に抗し切れなかった。いずれ北大陸に還るつもりのタルスには、路銀が必要だった。グラッダがタルスに声をかけたのは、余所者であるタルスとは、何かとあと腐れなく山分けできると踏んだのであろうーーいざとなれば殺すことも含めて。とまれタルスたちは、勇躍、遺跡に向かったのだった。

「まさかーー」

 葡萄酒を啜りながら、グラッダの目に、事態を了知した色が浮かんだ。

此処ここはーーあの、絵の中なのか?」

「だろう、と思う」

 およそ超自然の出来事に疎いタルスだが、しぶしぶながら、我が身に降りかかった、此の世のものとは思えぬ怪異を認めざるを得ないのだった。

 

 先ごろの大地震のあと、卒然とペレンス野に出現した石造りの廃墟は、弓張月の下に、じゃくとしてうずくまっていた。平屋建てで横に拡がるその遺跡は、霊廟にも、権門の城館にも見えるが、およそ今の世に知る者とてない様式の建築であった。大理石に似た、しかしやはりどこか違う材質で出来ており、不可解な角度で壁と丸屋根が交わっている。突き出た尖塔は溶けた蝋燭のようにねじくれていて、外壁に刻まれた神々は、見知らぬ風貌であった。

 荒れ果てた建屋を前にしたタルスは、よもや時空の彼方から来訪した廃墟ではあるまいか、と狐疑こぎ逡巡しゅんじゅんした。流浪の暮らしの中で、そのような事物が在ることを聞き知っていたのだ。この時点でタルスの本能は、災厄を嗅ぎつけていたのだった。が、グラッダは気にする様子もなく踏み込んで行き、タルスはまんまと後に従ってしまった。

 幾つもの房室へやを見て回ったが、見たこともない金属で作られた七枝燭台と、古びたひつに仕舞われていた、貴石の縫い付けられた薄衣うすぎぬの他は、銀貨に変えられそうな品物は見出だせなかった。

 気落ちしていなかった、と云えば嘘になろう。だからこそ、吸い込まれるように、二人は奥へ奥へと進んでいったのだった。

 最後に入った大広間に、その壁画はあった。壁一面を占め、建材に直接、顔料で描かれているのは、奇妙な橋であった。

「なんだ……この薄気味悪い絵は?」

 グラッダが、松明を掲げて眺め歩いた。絵の横幅は、広間と同じ幅があって、大人で二十歩ほどもあると思われた。また、縦は部屋の高さと同じであり、絵柄は天井まで及んでいる。グラッダが動くと、光の領域も動いたが、全体像を見ることは叶わず、端は闇に溶けているのだった。

 何度か往復し、ようやく絵の構図を捉えることが出来た。

 横長の画面いっぱいが橋長きょうちょうであった。それもただの橋ではない。橋桁の上には屋根の平らな建物が立ち並び、それ自体が一つの都邑まちになっているのだった。絵の端から端まで、つまりは街全体を、大道だいどうが貫いており、その道には武器を携えた兵士がひしめいていた。上手と下手、両方から押し寄せた兵士が、橋桁の半ばでぶつかり、凄惨な殺し合いを繰り広げているのだった。不気味で、見る者をどこかゾッとさせる絵である。

 それに気づいたのは、同じように壁画を見渡していたタルスだった。

「あれは?」

 指し示した場所を、グラッダの持つ松明が探り当てた。壁の高い場所、絵柄で云うと、両軍のぶつかる最前線の真上に、何かが埋め込まれていた。

 しかとは云えないが、煌めくそれは、血のような色をした紅玉と思われた。見たこともないくらいの大粒で、しかも妙に生々しい、内臓めいた形状に加工されている。相当な値打ち物ではないか? 二人は顔を見合わせてニヤリと笑いあった。しかし、二人の目はすぐさま紅玉に引き戻された。あらためて見ると、その紅玉の輝きは、まるで脈打っているように感じられるのだった。

「ーーおい! おい!」

 グラッダの声が不意に大きくなった。タルスは己れが話しかけられていることに、ようやく気づいた。

「あ、ああ……何だ?」

「ーーあれはーーどうやったらーー外れるーーと思うーー」

 尋ねているグラッダの声が、不可解に遠遠とおどおしく聞こえていることに、タルスは気づいた。水の中で聞こえてくる音のようだった。タルスは、無意識に、耳の穴を指でほじったが、何の変化も起きない。

「おい、何かおかしくないか?」

 タルスは返事をしたがそれは、グラッダに不審がられるほど、間遠まどおなものであった。そしてタルス自身は、そのことを自覚してはいなかった。

 二人のやり取りのあいだ、紅い光は、ハッキリと明滅し始め、広間中が朝焼けめいた光に包まれていたが、二人は気づいてすらいなかった。グラッダの耳にも、タルスの声は遠遠とおどおしく響き、互いの視界は、グンニャリと歪んでいった。

 いまや紅玉の纏う耀きは、光球のようなハッキリとした実体を伴っていた。それは急激に膨張し、光球は瞬く間に、二人を呑み込んだのだった。

 そしてーー。

 明滅が唐突に止んだ部屋には、二人の姿は跡形もなく消え去っていたのだった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る