第152話 その後 四
桶狭間の戦いは、後に日本史の中でもメジャーなエピソードとなるが、その事実は伝わらず、謎といっていい事件となった。
何故か。
永禄三年の時点で太田又助と名乗っていた太田牛一は、彼の後半生をかけて『信長公記』という織田信長の伝記を纏めた。
桶狭間の戦いも『今川義元討死の事』という題で記述したが、なぜか年表記は「天文二十一年」とし、しかも三度も記述した。場所は大まかに「おけはざま山」と書かれているだけで、今川軍が陣を敷いたそれぞれの場所の記載もない。
ちなみに、義元が本陣としていた愛宕山は、その後「幕山」と地名を変えた。しかし、現在本陣だった場所は不明となっており、「今川義元本陣跡」という史跡は二か所ある。幕山の東となる名古屋市緑区桶狭間北三丁目と、さらに東、豊明市栄町の高徳院内だ。
太田牛一が記した桶狭間の戦いは、おけはざま山で休息をしていた今川軍に向けて、織田軍は善照寺、中島の取出を経由して(おけはざま山の)山際まで進軍。このとき降り出した雨が止んだ時に総攻撃をかけ、「後ろへくはつと崩れ」た今川軍を打ち破りながら本陣へ向かい、「くづれ逃れけり」今川義元を討ち取ったとしている。
これを読むと、今川軍は完全に油断しており、しっかりと戦闘態勢をとっていなかったために敗れたと読み取れる。
牛一の後に、小瀬甫庵が『信長記』を著した。
そこで記されている桶狭間の戦いは、太田牛一の著作をベースにしながらも、今川義元は上洛のために尾張を侵攻したという記述となり、大雨の中の迂回による進軍と、山上から麓にいる今川軍への攻撃という描写になっていた。
甫庵は牛一の文に納得できず、自ら戦いを再構成したと考えられる。取材はしたかもしれないが、創作も多かったようだ。
牛一は子孫や一部の有力者に書冊を残したが、甫庵は版本などで刊行し、流布した。ために信長の史実は甫庵版が一般となった。
明治となり、大日本帝国陸軍は、小瀬甫庵の『信長記』を元に桶狭間の戦いを幕山からさらに東、太子ヶ根の山上から麓の今川軍への〝奇襲攻撃〟とし、戦術研究の教材とした。そのため、以降はこの説が通説として語られることとなった。
現在も桶狭間の戦いは太田牛一の〝正面攻撃説〟と小瀬甫庵を基調とした〝迂回奇襲説〟の大きく二説がある。そのため古戦場跡も二つあり、ともに史跡公園がある。
何故このようなことになったのか。
太田牛一は、桶狭間の合戦に参陣している可能性がある。たとえ留守居だったとしても、様々な話は聞いていただろう。
では何故、彼は仔細を書かなかったのか。だけでなく、彼は間違えようのない年次の誤字とそのための組み替えをしている。
甫庵でなくとも、きちんと読み込めば疑問に思っただろう。
一兵士である牛一には知りえない何かがあったのか。それとも別の理由があったのか。桶狭間の戦いは、現在も大きな謎となっている。
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