第126話 その後 三

 今川氏真は、敵討ちをしようとはしなかった。彼としては尾張侵攻よりも組織の建て直しの方が大事、と考えていたのかもしれない。しかし煮え切らない氏真の態度に家臣たちの心は次第に離れていった。

 最初は松平元康の三河だった。

 岡崎城に留まった元康は、氏真からの度重なる催促も駿府に戻ることはなく、永禄五年(一五六二)には三河の上ノ郷城を攻略した。この戦いで元大高城主だった鵜殿長照を討ち取り、生け捕りにした長照の子供と駿府で人質になっていた妻の瀬名、そして二人の子供との人質交換に成功した。

 同年元康は信長と同盟を結ぶ。清須同盟と呼ばれ、二人の同盟は信長が本能寺で死を迎える天正十年(一五八二)まで二十年間続いた。

 翌永禄六年、元康は今川義元から偏諱を受けた「元」の字を返上、家康と名乗った。後に姓も徳川と改める。

 元康に伴って三河の国人領主は今川からの離反が進み、松平派と今川派で争いが群発した。氏真はこれを『三州錯乱』と呼んだ。

 争いは遠江へも広がった。

 離反を疑われた井伊谷いいのやの井伊直親が誅殺され、引間城の飯尾連竜や犬居城(静岡県浜松市)の天野景泰らが離反した。氏真は遠江における家臣たちの離反を『遠州えんしゅう忩劇そうげき』と表現している。

 氏真は、それでも駿府に留まり、自ら軍勢を率いて事を収めることをしなかった。鎮圧は専ら重臣たちが役を担った。井伊直親を殺したのは朝比奈泰朝であり、三浦正俊は飯尾氏の引間城を攻撃して討死してしまう。

 そして、遠江の乱れは駿河にまで波及した。

 永禄十一年(一五六八)十二月六日、武田信玄が甲府を発して駿河侵攻に向かった。氏真は迎撃を命じたが、多くの家臣が武田に内通しており、今川軍は戦うことなく退却した。同十三日信玄は駿府に入り、氏真は遠江の掛川城へ出奔した。

 翌永禄十二年五月十七日、掛川城は徳川家康に攻められ、氏真は降伏、城を明け渡した。

 この日が今川家滅亡の日とされている。


 義元の実母寿桂尼は、今川家の滅亡を見ることなくこの世を去った。前年の永禄十一年三月十四日のことだった。

 寿桂尼は義元が桶狭間で戦死したことで表舞台に戻り、氏真を補佐した。しかし体は次第に衰え、永禄八年頃からは政務を行うことが出来なかったようだ。

 亡くなったとき、彼女は八十歳に手が届こうとしていた。骸は沓谷くつのやの龍雲寺(静岡市葵区沓谷)に埋葬された。今川館の北東、うしとらの方角にあたる。

「尼が寂せば、鬼門にこの身を葬りなさい。死後も今川の館を守りましょう」

 寿桂尼はこのような遺言を残したと伝えられている。

 前述の通り武田信玄が駿府に侵攻したのは寿桂尼が亡くなった年の暮れだった。彼女の生きているうちは、信玄も手が出せなかったのかもしれない。


 掛川城から逃れた氏真は、妻の実家である北条氏の庇護を受けた。しかし、岳父である北条氏康が元亀げんき二年(一五七一)に亡くなると、次の当主の氏政は武田との和睦を図った。そのことで氏真は北条に居辛くなり、相模を離れた。

 次に氏康が頼ったのは、徳川家康だった。

 家康はかなり驚いたと思われる。しかし彼は氏真を邪険には扱わなかった。もちろん駿河攻めのための名目として使える、という打算的な考えはあっただろうが、ぼろぼろになって頼ってきた元主君を、追い返すことは出来なかったのだろう。

 天正三年(一五七五)年三月、氏真は上洛し、信長に謁見している。このとき氏真は信長の所望で蹴鞠を披露した。

 その後も彼は長生きし、最後は江戸で没した。慶長十九年(一六一四)十二月二十八日、享年七十七歳だった。子孫は高家となり、家名は存続する。

 氏真の歌が残っている。出家し、宗誾そうぎんと名乗っていた頃の一首といわれている。


 悔しともうら山し共思はねと

    我世にかはる世の姿かな

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る