伝の章

有ることを除かず、無きことを添えず

第127話 太田牛一と丹羽兵蔵

「お名前はかねがね、お顔の方もよく存じております」

 男は言った。

 小さな棲みだ。住人はこの男一人なのだろう。ほのかに漂う酸い匂いは、つい先ほどまでむしろがひかれ、この男が臥していたことを想像させた。

 現在名乗っている名ではなく、太田和泉守又助の名で訪ねたのだが、男は牛一という今の名も知っているようだった。

「お懐かしい。あなた様がご子息と共にこの京でお働きになっていた頃、それがしは時折お姿をお見かけしておりました」

「ほう」

 思わず声を出していた。生気が感じられないほどに瘦せこけており、当時の姿を想像するのは難しいかもしれないが、それにしても目の前にいる男の顔に全く記憶がない。

 男は丹羽兵蔵という名だった。ずっと織田家の間者だったと聞いている。元々は桶狭間で功を上げた梁田政綱に仕え、後に滝川一益配下になったそうだ。しかし本能寺で信長が横死してから、この男がどのような遍歴を辿ったかは分からない。

 ただ男は現在京の片隅のあばら家に一人で住んでいることと、酒に酔った時にたった一度「自分は秀吉の上役だったことがある」と漏らしたことがある、ということを聞いていた。吹聴するように何度も言ったのではなく、ただ一度だけ、という所に牛一は興味を持った。

 住まいはさほど苦労せずに知ることが出来た。戸口で用件を言うと、男は少し待たせてから中に入れてくれた。

 骨と皮だけではないかと思われる容姿と、歩くのも大儀そうな動作で、男が大きな病を得ていることが想像できた。年齢は牛一とあまり変わらない程だろうか。そろそろ七十に手が届くかというところだが、実際はもっと若いのかもしれない。

「上様には、一度敷居の内でお目通りを得たことがございます」

 男は言った。桶狭間の前年に信長が上洛したときの話だった。このとき牛一は信長に仕えていたが、上洛の一員には加えられていなかった。そのため男の話しの一つ一つが新鮮で、実際に体験した人間としての迫真性があった。

 男は職業柄というべきか、信長を暗殺しようとした美濃衆の名や会話の内容など細かいことをよく覚えていた。

(これは使える)

 牛一は思った。

 男からは他にも最初に仕えた梁田政綱の話などを聞いた。噂で聞いた記憶はあるが、これまで忘れていた話だった。

 牛一は、一番聞いてみたいことを聞くことにした。

「そなたが昔太閤殿下の上司であったという噂を聞いたのだが、本当の事でござるか」

 と、それまで牛一の問いになんでも答えていた男は見る間に顔を変えた。

「いや、その話は……」

 やや焦ったような声を出したかと思えば、少し考えたような顔になり、

「どこで、お聞きになられましたか」

 感情を消した顔になって言った。牛一は心の中で(まずい)と思った。この男は仕事柄、何度もこのような顔になっていたのだろう。下手に聞いた人間の名前を言えば、その者の命はない。そう思わせる冷たさを感じた。

「いや、さる筋から伝え聞いたのだが、……」

 牛一は真正面に目を据えた。何をされても口は開かんぞという目だった。まだ戦人いくさびととしての気組みが残っているのだな、と牛一が心の中で苦笑すると、男はツッと目を逸らし、

「そうですか」

 小さな笑みを見せて言った。幾分張り詰めた空気が薄らいだが、男は薄ら笑いを浮かべた顔で続けた。

「このことは、やめましょう。そのお話はお聞きにならない方があなた様のためにもなろうかと愚考いたします」


 太田牛一が丹羽兵蔵を訪ねた目的は、永禄十一年以前の信長関連の情報を集めるためだった。

 牛一は、元主君だった織田信長の生涯をまとめていた。しかし誰かに頼まれたとか、功名心とか、そのような理由で始めたものではない。

 元々は、彼のメモ癖だった。

 太田牛一が又助という通り名であった頃、仕えていた織田家では弓の名手として知られていた。四十歳、美濃堂洞攻めのときには彼の小気味よい弓働きに信長が賞賛し、知行を増やしたということもある。

 しかし信長は、いきなり牛一に、奉行衆として出仕するよう命じた。

 この時の信長は、新しく室町将軍となった足利義秋(後に義昭)からの要請に応え、京に進出することを考えていた。そうなると必要になるのは京で政務や事務を担当できる役人で、武人としては年齢が高く、読み書きが出来る太田牛一は格好の人材だった。

 幼少のころ牛一は、常観寺(現成願寺・名古屋市北区)という天台宗の寺で育ち、僧としての修行と共に読み書きも習っていた。今頃になってあの時の修行が役に立つとは、と複雑な気分の牛一だったが、体力の衰えを感じているときでもあり、存外切り替えは早かった。

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