第128話 信長の伝記
永禄十一年(一五六八)、信長が上洛したとき、太田牛一も従って京に入った。京では与力の一人として丹羽長秀の元で働くことになり、京の寺社との折衝や代官などの政務を務めた。
その時期あたりから牛一は、その日の記録を書き残し始めた。
彼自身のことだけでなく、信長の動向や織田家周囲の動きなど、耳や目にしたことも記録した。元々は備忘録で、後々必要になることもあるかもしれない、という気持ちがあり、再び文字を学ぶという目的もあった。
しかし、意外と性に合っていたようだ。寝る前にその日のことを書くのは習慣となり、いつの間にか常に矢立(筆と墨を一体にした携帯用の筆記具)を持ち歩くようになっていた。
天正十年(一五八二)、主君の織田信長を本能寺で失った後、出向していた丹羽長秀の正式な家臣となった牛一は、長秀に従って近江の坂本城に入った。丹羽長秀は羽柴秀吉と柴田勝家が対立する中、秀吉方の武将として参戦するために入城したのだが、牛一はここでも長秀の祐筆や京の寺社との折衝などを務めていた。
翌天正十一年(一五八三)賤ケ岳での戦いに勝利した羽柴秀吉は、丹羽長秀に越前と加賀二郡を与えた。これによって長秀は、元々所領していた若狭を加え、百二十三万石の大大名となった。
しかし天正十三年(一五八五)、丹羽長秀は死んだ。胃ガンだったと伝えられている。
五十九歳になっていた太田牛一は、これを機に役務を嫡男の小又助らに譲り、丹羽家の領地である加賀の
悠々自適といえば聞こえはいいが、これまでずっと休みなく働いてきた牛一にとって、何もすることがない日々が続くというのは想像以上に苦痛だった。
あるとき牛一は、納戸部屋に自身が持ってきた行李を置きっぱなしにしていたことを思い出し、整理することにした。中には仕事や個人で交わしてきた手紙や書簡、これまで記録してきた紙束などが相当あったはずだった。
暗く埃っぽい納戸から行李を一つ取り出し開けてみると、出てきたのは永禄の終わり、牛一が信長に伴って京に入った頃の書付だった。
そこには当時の自分の行動や予定だけでなく、
気が付くと、日が暮れようとしていた。下男が気を利かせてくれたのだろう、燭台と油が近くに置かれている。牛一は全く気付かずにいた。
(ここまで集中したのは久しぶりだ)
このとき牛一は、一つの思い付きを頭の中で咀嚼していた。
織田信長の生涯を記録に残す。
幸いにして多くの書付は日付と共に信長の行動を記していた。これだけである程度は書けそうだ。
そして何よりも、
(儂にも出来ることがある)
久しぶりに湧き上がる静かな興奮を心地よく感じていた。
(これは天におられる上様が下した御命令なのかも知れぬ)
牛一は、こうも感じていた。
この日から、牛一は忙しくなった。
最初は行李の中から信長関連の書付を全て抜き出し、日付順に並べ始めた。予想通り記録は永禄十一年(一五六八)の中頃からなされている。いくつか抜けのある時もあったが、概ね本能寺のあの時まで揃っているようだった。
次に、並べた書付を一枚一枚別の紙に書き写した。さらなる記憶を取り戻すためと、全体の構成を考えるためだった。書き記していくとある事件についてその後に聞いたことを書いている書付などがあり、一枚の書付にいくつかのエピソードが分かれて記載されたりしていた。牛一はその書き起こしを切り貼りし、それぞれのエピソードに添付した。
書き写しが終わると、次は草稿づくりとなる。牛一は書付を月日順に文章化し、文章ごとに見出しをつけた。そうすると、書き起こしの羅列だけでは意味が通じないと思われる文章がいくつもあり、説明や話の流れを整えるための文章追加が必要だった。
牛一はこの書き物を自分の子どもたちに残そうと考えていた。そうすれば書物は子々孫々に伝わっていくことだろう。子達くらいなら書付からの抜き写しだけでも話が通じるだろうが、後々の子孫にとっては唐突で分かりにくい内容があるように思える。
例えば、最初からそうだった。
記録は前述のとおり永禄十一年、信長の上洛から始まるが、足利十五代将軍義昭による要請と、そのきっかけとなる足利十三代将軍義輝の暗殺については何の記録も残していない。この逸話がなければ後々の子孫(読者)は信長がなぜこのとき上洛をし、京が拠点の一つになったかという理由が分からないだろう。
やはり間を埋めるための史料集めが必要か。草稿をある程度書き上げた牛一は、何度も推敲を繰り返しながら、そう考えていた。
そんな時、思いもよらない来客があった。初めて見るその男は、
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