第129話 落首事件と捨の誕生
史料集めのためには京や大坂など取材に行く必要があるだろうと牛一は考えていた。記録や手紙などの資料収集だけでなく、当時を知る人の話しを聞き、可能ならば現地を検分することもしてみたい。
しかし、隠棲を始めてからそろそろ三年が経とうとしている。頭はしっかりとしているつもりだが、信長公の記録を調べるという目的だけで京や大坂を訪ね歩くのがいささか億劫になっていた。
そんな折、この要請は渡りに舟といえた。豊臣の家臣となれば探したい資料を写したり手に入れたりすることが今より容易になるだろう。豊臣家臣でなければ目にすることの出来ない書などもきっとあるはずだ。また、人に会うにしても豊臣家臣という肩書があれば話してくれる率も高まると思われる。
そして何よりも、豊臣に仕えることで自身に活力が戻ってくるのではないか。
(それにしても)
一度隠棲した自分に声をかけるとは、どれだけ人手が足りないのだ、とも思った。
天正十四年(一五八六)九月四日、羽柴秀吉は
しかし、裸一貫からスタートしたこの天下人は、人材というものを他の大名のようには持っていなかった。彼の親族には有能な弟(秀長)を例外として、凡庸な人物しかいなかった。
彼が直接指示できる家臣たちも、ほとんどが元は主君信長からの借り物だったといえる。
しかも信長が亡くなったことでいきなり手に入れた天下だ。治世のために必要な人物が決定的に足りなかった。
信長の元家臣で京での行政や人間関係を把握している牛一はぜひとも欲しい人材だったのだろう。訪れた使者はそのようなことを一言もいわず、秀吉からの書にも触れられてはいないが、牛一はそのように察していた。
こんな年寄りになんということだ、と牛一は思いもしたが、自分はまだ人に望まれていると感じることはやはりうれしかった。
京に入った牛一は、普請途中の淀城(京都市伏見区納所)で勤めることとなった。仕事自体は信長時代とあまり変わらず、寺社との折衝や洛南の代官などの政務にあたった。
淀城は桂川・宇治川・木津川が合流し、淀川となって南に流れる合流点の北岸辺り、天然の要害といっていい地にある。元々はこの時よりおよそ百年前、応仁の乱のときに作られたといわれる京の南を守るための城だった。現に本能寺の変の後、明智光秀はやってくる秀吉軍に備えてこの城に入城している。
しかしこの時は目的が違った。秀吉の側室茶々が懐妊したため、産所としての拡張普請だった。淀城が選ばれたのは、大坂城と京の秀吉の役所であり邸宅でもある聚楽第(京都市上京区)の間にあり、舟でつなげることが出来る桂川沿いに立地しているためだった。
当然、一般には茶々の懐妊は知らせていない。しかし世間では微妙な空気と共に噂として広がっていた。秀吉には正室の北政所をはじめ多くの妻妾がいるが、これまで子を授かることがなかった。このことから、誰もがこの天下人には子種がないと思っていた。
そのような空気の中、事件があった。
天正十七年(一五八九)二月二十五日の夜、聚楽第の表門にいくつかの落首が貼られていた。それは茶々が懐妊したことを他の出来事に絡めて皮肉ったものだという。
秀吉は激怒した。
その夜の番衆十七名を職務怠慢として捕縛し、一日目は鼻を削ぎ、二日目には耳を切り、三日目には逆さ磔にして処刑した。
同時に犯人捜しも行われ、尾藤道休という浪人が容疑者として浮上した。道休は大坂天満の本願寺(現在の造幣局あたりといわれている)に逃げ込んでおり、奉行の石田三成と
このとき住職だった顕如は、元々織田信長と石山本願寺で十年に渡って戦った人物だった。常に監視下に置かれているような立場の彼は、道休を自害させ、その首を差し出すことで事態を収拾しようとした。三月一日のこととされる。
しかし、秀吉はまだ許さなかった。
翌二日、天満にある道休の居宅と周辺の町を焼き払い、近所の住人が捕らえられた。九日には天満森で六十三名が捕縛され、内三名は自害、残り六十名は京の六条河原まで連行され、そこで磔にされた。中には八十歳を越えた老人や、七歳に満たない子どももいた。道休に関わりがあるなどは関係なく、有罪かどうかはクジで決めたという。この他にも大坂で磔になった者が五十名あり、合わせて百十三の命が無残にも散らされた。
牛一は信長の家臣だったときも肝の冷えるような話を何度か聞いていた。しかし、淀城に来て早々にこの事件の顛末を聞くにつれ、秀吉という新たな主人に対して、信長とは別の底冷えするような恐ろしさを感じた。
茶々は同年三月、完成したばかりの淀城に入った。そして臨月を迎え、五月二十七日に男子が誕生した。秀吉にとっては五十三歳にして初めて得た嫡子であり、その喜びは相当のものだった。
子は
禁裏からは産着など祝儀の品々が
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