日月未だ地に堕ちず

第124話 その後 一

 今川義元を討ち取った、という声が桶狭間のあちこちに広がったのは未の下刻には至っていない時分、現在でいえば午後三時を過ぎた頃だった。信長が攻撃を仕掛けてからまだ半時(約一時間)位しか経ってはいない。

 馬に乗った信長が義元最後の地を検分に訪れ、毛利新介が差し出した首を一目見たのはそれから間もなく後のこと。

「明日見る」

 信長はそう言うと、軍扇を開いて勝鬨の音頭をとった。織田軍の雄叫びは桶狭間山のあちこちから響いた。

 これを潮に信長はすぐに清須へと馬首を返した。大勝利とはいえ、今川の残党はまだあちこちにいる。明るいうちに帰らなければ何が起こるか分からない状況ではあった。

 織田軍は日が暮れる直前に清須に到着した。既に勝利の報せを耳にしていた清須の街はお祭りのような騒ぎとなっていた。沿道は出迎えの人々でいっぱいとなり、帰ってきた兵たちは誰もが勝利と、生きて帰ってきた喜びを分かち合った。

 翌日、首実検。

 討ち取られた首級は三千余であったと伝えられている。信長の指示があり、その多くは耳だった。信長の前に披露される首は、義元をはじめ松井宗信や庵原元政、三浦義就よしなりなど、錚々そうそうたる武将たちのものだった。

 当時は当然のことながら写真というものがないため、その首が実際にその人物かどうかは会ったことがある人間でないと分からない。しかし、織田方は戦の中で一人の男を捕らえていた。同朋衆どうぼうしゅうの権阿弥という男だった。

 権阿弥は観念していたのだろう。首の一つ一つをこれは誰、これはこの御仁と明確に答え、織田家臣の手によって札が首に添えられた。そのため首実検はスムーズに進行することができた。

 権阿弥の態度に感ずるところがあったのだろう。信長は権阿弥に金銀で装飾された太刀と脇差を与えたという。

 後に信長は清須から二十町(約二キロ強)ほど南の須賀口という場所に義元塚を築き、僧を集めて千部経を読経させた。また、信長は熱田の宮に礼として塀を築いた。『信長塀』として現在も残っている。

 次に、信長は論功行賞を行った。家臣たちを驚かせたのはその第一位の人物だった。

 簗田弥次右衛門政綱。

 当時の常識でいえば第一位は義元の首を討った毛利新介のはずだった。しかし、信長は働きの重要度で人選を行った。信長に言わせれば毛利新介などは単に運がよかった、ということになる。簗田弥次右衛門は信長の手足となり、事前準備を整えた。また、水野兄弟の今川への内通と戦い開始時の寝返りを、信長の元で監督したのも彼だった。

 信長にすれば当然のことだった。しかしこれは当時革新的といえた。簗田弥次右衛門には沓懸城と二千貫文相当の所領が与えられた。


 信長にとって桶狭間での勝利は特別なものであったのだろう、こんな逸話も残っている。

 この戦いで信長は義元の愛刀を手に入れた。無銘ではあるが作者は筑前左文字さもんじ派の刀工といわれ、半隠軒宗三そうざと号した三好政長が所持していたことから『宗三左文字そうざさもんじ』と呼ばれる二尺六寸(約七十九㎝)の大刀だった。信長はこの刀を二尺二寸一分(六十九㎝)にり上げ、柄の表に「永禄三年五月十九日義元討取刻彼所持刀」、裏に「織田尾張守信長」と、どちらも金象嵌きんぞうがん(彫った溝に純銀を埋め込む技法)で銘を施している。

 信長はこの刀に愛着をもち、移動するたびに持ち出していたらしい。

 刀は本能寺の変で焼けてしまったが、藤吉郎、後に太閤となる羽柴秀吉が焼け跡から探し出し、焼き直させたという。刀は息子の秀頼に相伝され、関が原の戦いの翌年である慶長六年(一六〇一)、徳川家康に贈られた。

 つまり、義元の刀は天下人から天下人へと伝えられることとなった。この刀は『義元左文字』と称され、別名『天下取りの刀』とも呼ばれた。

 現在その刀は、信長を祀る建勲けんくん神社(京都市北区紫野)の所蔵となっている。



 戦いに敗れた今川方は悲惨だった。義元討ち死に、という織田兵の声は戦場中に響き渡り、それを聞いたほとんどの兵が浮き足立ち、すぐに戦線離脱を図った。

 今川軍の多くは農民兵だった。そもそも今川家に対する忠誠心は薄かった。そんなことより恐怖心や家に帰りたいという気持ちの方が強かっただろう。我先に尾張から逃げ出そうとした。

 彼らの多くが三河に入るまでに織田の兵や落武者狩りの農民たちに追われ、討ち取られた。武具はもちろん身ぐるみ全てを剥がされ丸裸になっている死体が、そこいら中に転がっていた。

 武将にしても事情はあまり変わらない。

 グズグズしていると自らの命が危うい。敗軍の将の武具と頸を狙う落ち武者狩りが出てくるためだ。近隣の村人だけでなく、自らの奉公人さえも裏切る可能性がある。

 とにかく自領に帰る。その思いが強かっただろう。

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