第123話 義元死す

 織田の兵は見る間に増えていった。功名は今こそ、と義元を守る家臣たちを次々と崩していく。

 尾根道を左、東の方へと回りながら、義元を囲む円形は徐々に小さくなっていった。義元を守りながら退避する態勢となっているため、どうしても全速力で駆けてくる織田勢よりも足が遅くなる。そのうち織田兵の足止めをしようと囲みの中から何人かがその場に留まり、義元を少しでも遠くへ逃がそうとした。しかし織田の勢いは凄まじく、大した時間稼ぎも出来ぬ間に今川の兵は屍となっていく。

 気付けば義元を守る兵は五十人程しかいなかった。周りに見えるのは織田方の旗ばかり。追い詰められているのは明白だった。

「大御所様、お行きくだされ。ここは我らが守ります」

 山の麓に辿り着いたとき、義元のすぐ横に付いていた庵原元政が言った。

 そこは山と山の間に挟まれた長い窪地で、先には水を湛えた深田と池がある。確かにこの場所で織田をしのがねばすぐに織田の軍勢に囲まれてしまうだろう。

「美作」

 ずっと走っていたこともあり義元の声は上擦っていた。

「あの池を抜ければ大高道です。お行きくだされ」

 元政は早口で言うと、義元に軽く一礼した。そして体を反転すると、向かってくる織田兵に対して槍を向け、咆哮した。元政と共に十数人の兵がその場に留まった。

 義元と少数の従者は畦道を走った。しかしそれは道といえるものではなく、泥に足を取られて滑り落ちそうになる。大雨の後だから道の悪さはなおさらだった。

 織田兵は山の斜面の終わりとなる木々や草々の茂る場所から次々と現れてくる。兵は義元たちを追いかけ、回り込み、義元に付き従う近臣を一人、二人と打ち倒していった。義元が池の端をこえて草地に着こうとしたとき、義元のすぐ背中で声が聞こえた。

「服部小平太!」

 叫ぶように名乗った男は義元に槍を突いてきた。義元はそれまでふらふらと走っていたとは考えられぬほど俊敏にそれをかわし、大渇した。

「下郎!推参なっ」

 腰の宗三左文字そうざさもんじを抜くと振り向きざまに服部小平太の膝頭をすぱっと切り裂いた。小平太はのけぞり、背中から泥田に落ちた。

「毛利新介!」

 落ちた服部小平太のすぐ後ろから飛び出してきた男が槍を振り下ろした。槍は義元の兜を激しく叩き、ふらついた義元の脇腹を思い切り突いた。勢いで義元は茂みに足を滑らせ、雨でぬかるんだ草地に倒れた。槍を投げ捨てた新介は鎧通しと呼ばれる短刀を素早く抜き、覆いかぶさるように義元の体に跨った。義元は刀をもつ右手を振り上げようとしたが、新介の左手がそれを制し、左ひざで腕を止めた。義元の顔を押さえつけた新介は義元の首に刃を当てようとするが義元はまだ抵抗をやめない。新介は押し付けるように鎧通しの刃を義元の喉笛に当てた。義元は新介の左手の小指に嚙みついたが、新介は構わず力を入れる。


 富士があった。子どもの頃は嫌いだと思っていた富士の山だが、何故か妙に懐かしい。

 父の顔があった。穏やかな笑顔だった。そう、父はこんな顔だった。隣には若かりし頃の母がいる。厳しくも優しい母の目がある。

 わが師、承菊殿。京に伴ってくれた頃の師匠も緩やかな微笑で自分を見ている。京の街が見える。公卿や武家のざわめき、われに対する賞賛の声が聞こえる。

 兄氏輝がいる。隣にいるのは敵となった玄広恵探だ。二人とも暖かく自分を迎えている。

 妻がいた。龍王丸が生まれた後は急に体を悪くした。

(早く病が癒えれば)

 そう思う。妻は初めて会った時のように、恥ずかしそうな顔で自分を迎え入れた。

 そして幼い龍王丸が緊張の面持ちで近づいてきた。龍王丸は近づくと、今の氏真となっていた。

 義元は思った。

(氏真を残しておいて、本当に良かった)


「今川大将の首、討ち取ったりー!」

 義元の首を切り離した毛利新介は、鎧首を右手でかざしながら大声で叫んだ。新介が首を刎ねる様子を見ていた周囲の織田兵は皆叫ぶような歓声を上げた。

 義元の首討ち取ったり、という大音声と歓声が桶狭間のあちこちから聞こえ、広がっていく。

 歓声や雄叫びが洪水のようにあふれる中、毛利新介は大将首を自分の槍に突き刺して踊るように上下させていた。左手の小指が義元に噛み切られ、いまだその口中にあることに、新介はまだ気付いていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る