第122話 乱戦

 矢合わせのない不意打ちの突撃と水野の突然の裏切りは今川勢を大きく動揺させている。このまま二千の自軍と水野勢が固まって進めば今川の陣形は一挙に崩れるに違いない。

 そうなると義元も撤退を判断せざるを得なくなる。撤退するとなれば安全を確保できる三河まで退却することになるだろう。但し、当面は大高城もしくは沓掛城に逃れるに違いない。一旦後詰に逃げ込み織田の軍を抑えている間に大高城に走る手もある。

 元々は、うまくいけばこの機に乗じて大高城や鳴海城の奪取が可能ではないかと信長は見越していた。例えば大高城に義元が逃げ込めたとしても、早々に義元は三河に撤退するだろう。その機に乗じて大高城を奪い、鳴海城を攻め落とすのは不可能ではないと信長は考えていた。三河に撤退した義元は駿河に戻るだろう。なぜなら三河は義元にとってまだ安全地帯とはいえないからだ。あくまでそれは予測だが、義元が三河に残って指揮をする可能性は非常に低いと考えられる。

 少なくとも熱田近辺となっている今川との最前線は、こちらに有利な動きとなる。

(だが今はそれ以上の効果が出ている。もう少し抵抗があるかと思っていたが)

 〝勢い〟が戦の形成に大きく左右することを信長は幾度も経験してきた。とはいえこれほどの規模で敵を席巻しているのを見るのは初めてだ。

 しかし、敵の反応に俊敏に対応できる自身の判断と軍の機動性が肝要だと信長は考えている。今のような状況ならば、中島の付城で言った通り義元の首を上げることが出来るかもしれない。

「義元の首は近くぞ。皆競え!」

 信長は山を駆け上りながら大音声で兵を鼓舞した。


 今川軍は戦慄した。

 織田の槍が長いことは有名だが、槍先を前に山を駆け上ってくる織田勢には想像を絶する迫力があった。しかも織田の兵は五人、十人が一組となり槍先を揃えて疾走してくる。

 恐怖だった。

 そのうえ水野が裏切ったという。誰の心にも不安と猜疑心が渦巻いた。

 つまりは、パニックに陥っていた。

「何なんだこれは」

 もう何回この言葉を呟いたか。しかし今川義元には自分がそんな言葉を口にしているという自覚がなかった。

 今川の兵たちに統制はなく、バラバラだった。逃げる兵が義元たちのいる本陣にも多数やってきた。兵たちの元いた場所には弓や槍や鉄炮、幟や旗指物が散乱している。そして中腹から一丸となった織田の槍がこちらに向かってきているのが義元にも分かった。

 しかし、成す術がない。なにも浮かばない。

「大御所様、すぐにここをお引き払い下され。織田の軍勢すぐ目の前に来ております」

 朝比奈親徳の声は怒鳴っているようだった。そして庵原元政に目を向けると、

「大御所様をお守りしろ」

 言うと義元に目礼して家臣と共に走り出した。頂上近くで陣を張っている自らの兵で織田勢を押しとどめるつもりだろう。

「馬にお乗りになりますか」

 元政は聞いた。一応義元用の馬は引き連れて来ている。義元は少し考えたが、

「いや、走る」

 馬に跨ると目立ってしまうと思った。

 山頂近くということもあり今川も織田も馬に乗っている兵がいない。馬に乗ると逃げる経路が限られるであろうことも気になる。当然輿は選択肢に入っていなかった。

「承知しました。山を下り、大高へ向かいます」

「うむ」

 確かに沓掛城に戻るのは遠いし危険といえた。善照寺の砦に残っていた織田の別動隊が潜んでいるかもしれない。対して大高城には朝比奈泰朝の兵がおり、鳴海城の岡部もいる。善照寺砦から織田兵が向かっても対応ができるだろう。また大高城への道のりには後詰の瀬名氏俊軍などがいるため、織田兵が網を張っている可能性は非常に低いはずだ。

 元政の指示で近臣や小姓たちが義元の周りを囲んだ。

「元来た道で山を下りてそのまま大高城へ向かう。行くぞ」

 元政の声で義元を中心とした人の囲みが一斉に南へと走り出した。その数は三百ほどになっている。

 織田の兵はすぐ間近に迫っていた。


 織田の先兵は本陣の幔幕まで迫ってきた。中には誰もいないことが一目で分かった。そのすぐ脇に朱塗りの輿が放置されている。

「今川が逃げたぞ!」

 一人の大声から声が広がり、頂上に登った織田の兵は義元の行方を捜し出した。

 頂上に着いた信長は馬を連れてきた従者の元へ走り、ひらりと馬に跨ると多分義元が逃げたであろう南の比較的緩やかな傾斜に目をやった。すると木々の間から円状に固まって尾根沿いを東へ曲がりながら下りている集団があった。

 数十人の織田兵がその周囲を囲むように取り巻いているが、苦戦しているようだ。

「今川の旗本はあれぞ!追え!」

 信長の大音声に目を向けた兵たちは信長の指し示す槍の方向に向かって皆駆けだした。

 この時にはバラバラになっていた今川兵も個々に織田兵に向かっていく様が見えた。敵味方はかろうじて旗指物で見分けがつくが、それがなければ分からないほどの混乱ぶりだった。

 いつしか信長自身も馬を下り、荒くれ武者と先を争うように今川の兵を槍で突き伏せ、突き倒していく。

 あちこちで槍合わせの火花が散り礫や矢が飛び交い鉄炮の轟音が響いている。所々で死人やけが人が地に倒れていた。その中には信長の馬廻りや小姓たちも多くいた。

 まさに、乱戦だった。

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