第121話 驚愕 ※以降ネタバレ注意

 急激に降った豪雨は止むのもいきなりだった。

 雨量が減ってきたと思ったら、まるで栓をしたように一気に雨がなくなり、空が明るくなってきた。

「止んだか」

 義元の脇にいる吉田氏好の呟くような声が聞こえた。

(いよいよ動くべきか)

 その声を聴いた義元が考えた刹那、

「かかれー!」

 上に突き上げた槍を勢いよく正面に振り下ろす大音声が響いた。織田信長だ。

(弓合わせか)

 義元の頭にその考えが浮かんだ瞬間、織田の軍団がどっと愛宕山に向かってきた。弓や鉄炮を構えていた兵たちも手槍などに持ち替え駆けてくる。高根山や御林山に体を向けていた兵も向きを変え、すべての織田兵がこちらに来る。それは巨大な一つの渦のように見えた。

 と、同時に、

「水野下野しもつけ(信元)、義によって織田殿にお味方いたす!」

 麓の方で大声が聞こえ、水野の陣から鉄炮の音が響いた。その全てが山の中腹に向かっている。

「水野は味方ぞ。かかれかかれー」

 黒い塊が土や水しぶきを上げて動く中、さらに信長の声が聞こえた。

「な、何だこれは」

 思わず義元は声を出した。左右の親徳、氏好も驚きの表情を浮かべて立ち上がっている。


「織田殿にお味方いたす」

 という簗田弥次右衛門の大声が聞こえた瞬間、手筈通りだと信長の口角が上がった。すぐに水野の陣から山の中腹にいる今川に向けて鉄炮が轟き弓が射られる。石礫も今川勢に向けてあちこちから投げられた。槍兵は織田勢の前になって愛宕山の本陣に向かう。

「水野は味方ぞ!」

 信長は大声で兵に告げた。この言葉は同時に敵の混乱も誘う狙いがある。

 織田勢は水野がいた山裾から比較的角度が緩い斜面を固まって走っている。自軍の兵が愛宕山へと繰り出す様は信長から見ても勢いが強い。愛宕山に陣取る今川の兵からは驚きと戸惑いによる乱れが現れていた。

 信長自身も馬から降り、手綱を従者に預けて槍を片手に愛宕山に向かって走り出す。

 今川の兵は信長の想定以上に動揺していた。

 今川の最初の障壁となる水野軍が織田勢をあっさりと通すだけでなく一緒になってこちらに向かって来る。予想していなかったその動きは今川の兵に混乱と恐怖を植え付けたようだ。

 一目散に逃げだした兵がおり、槍を構えたまま動けずにいる者、腰を抜かして尻が地についている男もいる。彼らは逃げることさえ忘れているようだ。

 一部織田勢に向かって来る武士もいたが、波に揉まれる草木のように簡単に蹴散らされている。

 信長が麓を駆け上っているとき、信長の後ろで大声が聞こえた。

「井伊も裏切ったぞー」

(藤吉郎だな)

 信長は思った。振り返るとなるほど井伊や鵜殿の旗印をつけた兵がこちらに向かって駆けだしている。

「鵜殿も裏切ったー」

「松井も裏切りー」

 藤吉郎の声に呼応するようにあちこちから声が聞こえてきた。自分が命じたことではないがこれは効果がありそうだと信長は感じた。


 元々信長は、今川に混乱を呼び分裂させる策を考えていた。

 三河を制圧した今川が尾張を侵攻するのは間違いない。嫡男氏真を当主とした現在、義元自身が出馬する可能性が高いと踏んでいた。義元が出馬するなら大軍になるだろう。

 鳴海、大高への付城づくりは今川を桶狭間の山々に呼び込むための餌だった。

 大軍を平地で展開されると勝ち目はない。たとえ山上を取られても、今川を山々の連なりに呼び込めば陣を分散させることが出来る。

 そのため信長は、松平元康を取り込んで今川の情報を得、水野信元を今川家に寝返るように仕向けた。大高城のすぐ近くに向山の付城を築き、挑発したのは水野が寝返りをする理由付けのための策略だった。

 案の定義元は向山を含めた三つの付城を攻略し、簡単に落とした。向山の将である水野信元が今川へ内通するきっかけが作られた。

 さらに今日、信長が善照寺に入ったときには、氷上と正光寺という向山の付城を守る役割を担っていた千秋季忠、佐々政次を先駆けとして攻撃させた。

 確かにそれは今川軍の動きを見るための意図があったが、それ以上に信長は彼らを未だ許していないと義元に思い込ませたかった。そして、その流れで水野信元を織田との最前線に引きだせないかという期待があった。

 今川義元は王道でくる。

 二万以上の大軍であり、筋目正しい今川家は正攻法を基本とするだろう。当たり前だが定石は強い。しかし、どう動くか分かりやすいという欠点があった。

 信長は、そこに着目した。

 こう指せば、義元はこう返す、という予測ができる。実際、義元は信長の想定内の行動しかしなかった。

 対して信長は〝裏の手〟を弄した。当たれば大きいが危険も大きい。

 水野兄弟が朝比奈勢に組み込まれているという情報は事前に聞いていた。しかし信長は出陣を強行した。

 千秋、佐々を先駆けで使い、今川の陣頭を攪乱する。当然今川は補充を図るだろう。その際水野を充てる可能性は高い。今回水野だけが内通を許されたためだ。

 だが、あくまで可能性の問題だともいえる。たとえ水野が最前線にこなくとも、いきなりの一斉突撃で今川軍を崩すことは可能だと信長はみていた。

 そして今、最善の形で今川を〝驚かせる〟ことに成功した。

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