第120話 対峙

(この雨でも幕には入らぬか)

 愛宕山の頂上に大きな傘が掛けられようとしているところを信長は見た。この雨の中、きっと弓や鉄炮で狙われることはないと思っているのだろう。あの場所に今川義元がいることは明白だ。

(間違いなく義元はこちらを見詰めている)

 義元らに焦燥感を与えたい、と信長は考えている。進軍速度をゆっくりとしているのはそのためだ。

(義元は自ら死地にやってくるこちらの意図が見えず、疑念が膨らんでいるはずだ。そしてそのことが、こちらの勝利につながる)

 信長がそんなことを考えていると、傘はすぐにどこかへやられた。雨の勢いが強すぎてしっかりと固定することが出来なかったのだろうか。いや、義元が自分の居所を知られるのを嫌ったためかもしれない。

 信長は愛宕山の頂上を見詰めたまま、前を進む。

 緊張した今川勢の視線が集中しているが、信長はそれを毛ほどにも感じてはいないようだった。


 激しい雨が正面から打ちかけてくる。目も開けていられないような雨だった。先ほど差した大傘もまるで意味をなさなかったため、すぐに片づけさせた。

 愛宕山の今川義元は、右手を額の上にかざしながら、その場を動かずじっと織田勢の動きを見詰めている。

 麓にたどり着いた織田の軍は、本陣のある愛宕山、松井宗信らの高根山、鵜殿長照や井伊直盛らが守る御林山と、三方に向けて兵を配していた。

 特に愛宕山への配置は厚い。弓隊の全てを前面に立て、織田勢全体の半数以上が顔を向けている。

 三方に配置された軍の中央辺りに長槍を持った騎馬の武将がいた。その武者の周りに旗印はなく、他にも騎馬武者がいるのだが、それが織田信長であることは見ていて分かった。

 こちらの方をじっと見ているようで、顔は判別できないが、視線を強く感じている。

(敵も動かぬか)

 織田勢は麓に止まったまま動かない。こちらは正面、敵は背中に雨が降っている。この風雨ではこちらは弓鉄砲が使えない。織田にとって有利な状況だ。義元にすれば大雨に紛れて攻撃を仕掛けられると厄介だ、と思っていたのだが、どうやら杞憂に終わりそうだ。

(しかし、あの男は何を考えているのか)

 三方の山に陣取る今川軍に囲まれた形の織田勢は、わざわざこちらの罠に嵌りに来たようなものだ。

 しかし義元の気分が浮かないのは、織田もこのような状態になることを分かった上でここまで来ただろうと思えるからだ。

 しかも、千載一遇ともいえるこの風雨を織田は活かそうともしていない。

(まさか、策もなくここまで来たわけではなかろう)

 義元は中島砦に潜んでいた間者から聞いた信長の命令を思い出していた。あの言葉をそのまま解釈すると、信長は攪乱策を取ろうとしているように思われた。ならば織田勢がこちらに近づいてきている理由は分かる。しかし、あれだけの軍勢でどうやってこちらの大軍を攪乱しようというのか。数の差だけでなく、こちらは三方の山を押さえている。特にこの愛宕山は織田のいる場所から登るにはかなり急になっている。斜めに登ろうとしてもその道筋には水野以下多くの兵を配置している。

(やはり、今は動かぬ方が得策か)

 別動隊の動きがないか見張っている山田や松井からは何の報告もない。織田勢が何をするにせよ、この布陣を崩すのは難しいだろう。あの兵数で敵が攪乱を考えるならこちらは出来るだけ動かない方が定石のはずだ。

(この大雨にこちらから仕掛けることもあるまい)

 義元は頭の中でこの言葉を呟いた。しかし、やはりモヤモヤとした感情は消えない。

 襲いかかってくるような横殴りの雨だが、義元は動かずにいる織田の軍団と、その中央にいる騎馬武者たちの姿をじっと見続けている。


 どちらも、動かない。

 猛烈な雨の中、ピンと張り詰めた時間だけが過ぎていく。

 と、突然、

 何かが裂けたような轟音が響いてきた。

「なんだあの音は」

「木が倒れた音のようですな」

 音に反応した義元と親徳は自然と後ろを向いていた。北東、沓掛の方向だ。雨風が周囲の音を打ち消す中、今川、織田の両勢からどよめきの声が聞こえていた。

「まさかとは思いますが織田の別動隊の動きかもしれません。調べます」

 二人の後ろに控えていた庵原元政が言上した。

「ああ、頼む」

 義元は元政に目線を向けずに言った。


 東の方からの大音に信長は思わず目を向けた。どうやら大木が倒れた音のようだった。

「今川か」という声が聞こえた。

「うろたえるな」

 信長の鋭い声が響いた。しかし頭は動かない。前を向いたままだ。

 後に分かったことだが、沓掛の峠の方で樟の大木が倒れる音だった。二・三人が両手を広げて囲めるほど太い木だったらしい。西から吹く強い風で木は東に向けて倒れたそうだ。

 あまりの偶然に、

「あの戦は熱田大明神のご加護によるものではなかったか」

 と戦の後に言う者がいたという。

 ともかく、双方ともに動かない。

 緊張感からか、騒めきもすぐに静まった。

 織田信長と今川義元の、まさに睨み合いといった時間は続く。

 雨風はまだまだ強い。しかし大量の雨を降らせた雲は間もなく通り抜けようとしている。

 実際には半刻(約一時間)も経ってはいない。しかし、今川勢にとっても、織田勢にとっても、実際以上に長い時間が過ぎているように感じていた。

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