第119話 豪雨、来る
「風が、吹いてきたな」
今川義元が言った。
「大雨になるかもしれませんな」
朝比奈親徳が答えた。
彼らの上に広がる空には見る見るうちに平たく重い雲が近づいてきている。雨が降る前に漂う独特の砂埃のような匂いも漂い始めていた。
しかし、義元と重臣たちが実際に見詰めていたのは空ではなく、中島砦からこちらに向かって進軍している織田信長の軍勢だった。
信長勢は歩くような速度を保ちながら近づいてきている。その数約二千。義元たちでもその数が目測できるほど一塊になって進んでいる。もうすでにあれが大将の信長であろう騎馬武者の姿まで確認できるようになっていた。
義元と彼に従う重臣たちは愛宕山の本陣に着いた時から一度も幔幕の中に入らずにいる。
善照寺砦からの織田軍の動きは逐一捉えられるが、一つ一つの行動に理由が見えず、敵将である信長の考えが分からないためだった。
が、ここまでくれば敵が今川本陣に直接攻撃を仕掛けようとしていることは間違いない。
義元は信長軍が中島砦を出たあたりから母衣衆を使って様々な命令を伝えていた。
鳴海、善照寺から沓掛と、周囲が一望できる有松の山で監視をしている山田新右衛門の隊はもちろん、高根山で陣を張っている松井宗信、後詰をしている瀬名氏俊らにも織田の別動隊の動きに注意するよう伝えた。
また、本軍の後方、
善照寺砦までの織田勢は約五千と義元は聞いている。そうなると三千の兵が善照寺に残っていることになる。普通に考えて善照寺の兵がじっとしているわけがない。むしろ目の前に見える信長勢がおとりで、本軍は動きが見えない三千かもしれない。義元はそんな可能性も考えている。
しかし、善照寺砦の織田勢に動きがあったという報せはまだない。
(やはり織田はあの二千の軍勢だけで戦うつもりなのか。しかし、信じられぬ)
義元は本陣である愛宕山と高根山の松井勢、そして二つの山の向かいとなる御林山で陣を張っている鵜殿長照に、弓隊や鉄炮隊を前面に配置するよう指示した。また槍隊などには石つぶてを用意するよう付け足した。
織田軍が進軍している経路から本陣のある愛宕山に向かうなら、手前となる高根山、向かいとなる御林山に囲まれた窪みのような麓に入らなければならない。
愛宕山と高根山は、弓鉄砲の邪魔となる木々を伐採している。元々は明日の予定だった鳴海城周辺の砦を攻略するとき、その本陣とするための準備だった。
今日の段階で織田勢が善照寺あたりまで進軍することは予想できたが、まさかここまで来ることはないだろうと思っていた。
そのため、御林山に手を加えてはいなかったが、佐々、千秋との戦いでかなり弓鉄炮が使えることが分かっている。その後御林山では邪魔な木や枝を取り除いており、作業はこちらからも見えていた。
織田の兵は麓に近づくことで、周りを囲む山々から弓や鉄炮を向けられることになる。
その光景は恐怖に違いない。
だが、そのような今川の備えなど関係ないという如く、織田勢は粛々と近づいてきている。
「織田の兵はあまり弓や鉄炮を持っていないな」
目を前に向けたまま義元が呟くように言い、
「雨が降りそうだったので兵の多くに槍を持たせたのかもしれませんな」
朝比奈親徳も前に目を向けたまま答えた。
確かに善照寺砦から中島砦に移動しているときには、弓や鉄炮を持って行軍している兵が割合いたように思える。きっと中島砦で弓鉄砲を槍に持ち替えた兵が相当数いるのだろう。
「こういうとき遠征の大軍は不便よの」
だんだん強くなってきている風はこちらに向かって吹いている。向かい風だと弓や鉄炮の飛距離が縮み、狙いも定まりがたくなる。
また近づいてくる大きく重い雲は大雨を予想させるものだ。
ある程度の雨なら支障はないが、大雨が降ると火薬が濡れ、鉄炮が使い物にならなくなる。かといって今さら今川勢は、弓や鉄炮の陣構えを変えることは出来ない。
(それにしても)
と義元は考える。
そもそも本陣を攻めようとするなら、この山を登らなければならない。織田勢は矢合わせもそこそこに、すぐ突撃を仕掛けるかもしれない。そう考えると勢いを止める意味でも織田に向けての弓鉄炮の乱射は必須といえるだろう。
と、ポツリポツリと雨が降りだしてきた。雨粒が大きい。すぐに大雨になりそうだ。
(今のこの風と雨は我が方にとって不利ということか)
織田は雨の中突撃を仕掛けるかもしれない。気を引き締めよと伝令した方がよいな、と義元は次第に近づいてくる織田の軍勢を見ながら思った。
降り出した雨はすぐに勢いを増し、時がたたぬ間に滝のような激しさになった。風が強いため大粒の水滴が痛いくらいに背中を打ち付けてくる。
信長はすでに桶狭間の入口といえる有松の手前辺りにいた。雨の中でも進軍のペースは変えない。歩くほどのゆっくりとした速度で軍は進む。
右手、南の方向にいる織田勢の先頭はすでに愛宕山の麓にさしかかろうとしている。信長もゆっくりと馬首を右に回し、愛宕山の麓へと向かう。
(なるほど、さすがは今川の作事だ)
馬上横殴りの雨を背中に受けながら、信長は愛宕山を見ている。
効率よく木が伐採された山は所々から弓や鉄炮を放てるようになっていた。切られた木々はある程度枝葉が払われ、いくつかの塊となって中腹に置かれている。あれはあえて固定を緩めて置かれているに違いない。織田軍が攻撃に来た時に障害物となるようにしているのだろう。
(来るとは思っていなかったが、準備だけはしていたということだ)
そして頂上は木々が全くない状態になっている。主将である義元たちが周囲を見渡せるようにするためだ。
つまり、あの頂上に今川義元はいる。
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