第118話 信長、鼓舞する

 信長は評定の間のある母屋を出るとまっすぐ出入り口となる櫓門に向かった。付城の内外は兵で充満していたが、信長の通り道にいた兵は船が波を分けるように左右に分かれた。

 従う近臣を手でとどめ、門の上の簡素な櫓に登った信長は、付城の内外にいる兵に向けて声を上げた。

「皆の者、よく聞け」

 甲高いがよく響く。信長の声は全ての兵を自身に注目させた。

「これより今川本陣に向け進軍する」

 信長の宣言に「おおぅ」という声のうねりが重く響いた。信長は続ける。

「丸根鷲津を襲った今川兵が我らの後ろに来ると考える者がおるかも知れぬが、心配は無用。その今川兵は宵に兵粮を使っただけで夜通し行軍をし、大高城へ兵糧を入れ、丸根鷲津に手を焼き、辛労して疲れきった兵である。対してこちらは新手だ。奴らは動かぬ」

 方便だ。しかし根拠がある。

 松平元康からの間者によると、丸根を攻略した松平勢は大高城に入り、大高城代の鵜殿長照は本軍に合流したという。鷲津の井伊と総大将の朝比奈泰朝は、今川義元が丸根・鷲津を検分するための準備を進めているということだった。

 それはこちらで放っている密偵の報告とも一致している。大高付近の今川勢が我が方に向かって来ることはない、と信長は確信している。

 西遠江の井伊勢が鵜殿勢の補充のため本軍へ移動を命じられたことも信長の耳には入っていた。今川義元は信長が本軍に攻めてくる可能性を考え、警戒していると信長は見ている。

「我らが少数の兵だとて大敵を恐れることはない。運は天にあり。この言葉を知らぬか!」

 これも信長にとっては真実だ。

 現在桶狭間周辺に陣を敷いている今川の兵は、徴収された農民が大勢を占めている。しかも遠征軍だから荷駄方、作事(建築・土木)方など、戦に直接関わらない兵も多い。

 対して善照寺から信長が引き連れてきた二千の兵は、すべてが戦をする兵だ。即戦力として雇い入れた兵がほとんどであり、信長自身が訓練もしている。

 いわば戦闘のプロ集団だといえる。

「攻める敵があれば引け。敵が退けば追い打ちをかけよ。なんとしてでも敵を混乱させ、追い崩す。これが我らの企てと心得よ。敵を捕らえることはするな。首は打ち捨てにせよ」

 信長は一つ一つはっきりとした口調で指示をした。近くに今川の間者がいる可能性もあるため、あえて核心をついた命令はしなかった。そのため少し前に近臣を集めてより具体的な指示をしている。ただし近臣には義元の首を狙う、とやや異なることを言ったが、信長の真意は寧ろ兵全員に言った今の指示が近い。

「この戦に勝てば、この場におるもの皆家の面目末代の功名となるぞ。励め!」

「おー!」

 励めという言葉と共に信長はぎゅっと握りしめた右手を大きく振り上げた。高々と天に突き上げられた右手は兵たちを奮い立たせ、自然と歓声が起こっていた。


 信長軍が行軍を開始し、甲冑姿の信長が馬に跨って中島の門を出たとき、討ち取った首を前に並べ、平伏して待っている男たちがいた。

 前田利家以下九名、彼らは自ら今川軍との最前線といえる中島へ行き、佐々、千秋の先鋒軍に加わった。いわば抜け駆けといえる行動だ。しかし信長の同朋衆を殺して出仕停止となった前田利家をはじめ、信長の主筋だったが没落した家の者や、元々信長の敵だった武将の子供など、彼らは様々な事情で戦功を欲し、信長への仕官や出世を希望していた。

「殿、一番首をご覧いただきたくお待ちいたしておりました」

 利家は下げていた頭を上げると、緊張していたのだろう。早口で信長に口上した。

「すでに言い渡しておる。敵は捕らえず、首は打ち捨てじゃ。守れ」

 信長は冷たく言い放ち、両膝を絞めて馬を動かした。利家らはしばし呆然としたように手を地につけていたが、首は置いたままで行軍の中に加わった。

「付いていってもいいのか」

 男の一人が不安そうな声を出したが、

「殿は守れとおっしゃった。付いてこいということだろう」

 利家は顔を前に向けたまま言った。少年の頃からずっと信長に付き従っていたため、信長のそういった機微にはよく通じている。

 中島の付城を出た信長の軍勢は東南東、桶狭間に向かって歩く速度で進んでいく。空は軍勢の背後となる西の方から灰白色かいはくしょくの重い雲が東に向かって広がってきていた。風も強くなってきている。

(やはり降るな)

 しかも最初に予測した以上に強い雨が降りそうだ。しかしそれは信長にとって寧ろ好都合といえそうだった。

 多分今川本陣の麓に着くころには横殴りの雨が降っているだろう。雨は敵に向かって降っているはずだ。今川勢はこちらが麓に陣取ってもすぐには動かない可能性が高くなる。風雨の中では弓や鉄炮が思うように使えなくなるためだ。こちらにとって非常に都合がよい。

(天祐の雨か)

 普段は神仏的なことは思いもしない信長だが、天の助けという意味の言葉を頭に浮かべた。

 やるべきことはすべてやったつもりだ。これからは自分の力だけではどうにもならない。

 意外なほど静かな気持ちの中で信長は思った。

 ――死のうは一定、しのび草には何をしよぞ

「一定かたりおこすよの」

 呟くように信長は口ずさんだ。

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