第117話 信長、策を明かす

「では、中島への移動がある前に善照寺の周りから人の群れが離れていったあれは、理由が分かったのか」

 朝比奈親徳が聞くと、

「はっ、織田の兵が見物人を帰らせたものでした。中に潜らせておいた者も立ち退かされております」

 物見の兵が言った。

「確かか」

 親徳がなおも聞くと、

「は、ただいま善照寺で別の動きがないかを探らせております」

 兵が答えた。

「何かございますか」

 と親徳が物見に顔を向けたまま小声で義元に尋ねると、

「いや」

 義元も小声で返答する。

「承知した。持ち場に戻れ」

 親徳は大声で物見に命じ、

「やはりこちらに矛を向けるということでしょうか」

 義元に顔を向けた。

「だろうな」

 と義元も答える。すると兵が去るのを待っていたように庵原元政が義元の前に現れ、片膝を地につけた。

「申し上げます。先ほどの戦いの状況が分かりました」

 庵原元政は佐々・千秋との戦いにおける兵の損耗などを調べ、その数を報告した。以外に多い。特に鵜殿長照の兵の被害が大きかった。

「なお、討ち取った織田兵の首は大高城へ送るように手配しました。大将と思われる二人の首もありますが、いかがいたしましょう」

 ここで検分するか、ということだ。義元は少し考えたが、

「いや、大高でよい。ご苦労」

 元政に言った。兵に勝ちに乗った気分を持たせるならここで首を検める手もあるが、今の状況はそうではないだろう。

 義元は朝比奈親徳に顔を向け、言った。

「鵜殿には補充が必要と思うがどうか」

「ですな。今動かせそうなのは、朝比奈備中の兵でしょうか」

「ああ」

 泰朝の兵か、と義元は思った。三河の松平は大高城に入れているため、西遠江の兵が適当だろうと即座に判断した。

「では母衣武者を送って大高の朝比奈備中に西遠江の兵をこちらに寄こすよう伝えよ」

 義元は庵原元政に指示し、ふと思い出したように、

「そう、小河の水野な。あれも備中だったか」

「は、朝比奈殿の配下となっております」

「そうか、ではあれにも働いてもらおうか。この山の麓にでも付くようにしてくれ」

「はっ、刈屋の水野はいかがいたしましょうか」

 庵原の問いに、義元は少し目を上に向けたが、

「ああ、備中の元でよい」

 と言った。

 寝返り者を先備さきぞなえ(敵に一番近い前線への備え)に送り込むという命令だった。最前線に新参者を配することは、その忠誠心を試すためや、他の被害を少なくするためによくあることだ。

 今回の場合、小河の水野信元は先備だが、刈屋の水野信近は元々今川方だったのでその任を負わせる必要はないだろうと判断した。また、信近も先備にすることで、後に家臣が親族などを今川家に内応させる際、躊躇しそうな先例を作りたくないという思いもあった。


 中島の付城に入った信長は、評定の間で兵が集まるのを待っていた。信長直属の兵ばかりだが、それでも二千に近い。それが一列になって移動しているため、どうしても時間がかかっている。その間、信長は床几に腰かけたままじっと動かずにいた。

 彼の元には放っていた斥候や間者が度々現れ、義元と今川軍の動きを報告していた。その全てを信長は黙って聞くだけで、彼らを呼び出したり退出させたりするのは周囲の近習が行っていた。

 その最中、一人の男が「殿に直々に」と言ってきた。簗田弥次右衛門の配下だと男は言う。それを聞いた信長は周囲に人を近づけないよう近習に告げ、人払いをして報告を聞いた。

 男の口上を聞いたとき、信長はニヤリと唇を曲げた。

「承知した、と弥次右衛門に伝えろ」

 信長は言った。上手くいっている。そう思った。

「善照寺からの移動、終わりました」

 簗田弥次右衛門の伝令が帰り、主だった者たちが評定の間に戻ると、タイミングよく近習の一人が信長にそう告げた。

「よし」

 床几に座る信長は鋭い声で言うと、左右に座る近臣たちに向かって、

「出陣する」

 静かな声で言った。

「お待ちくだされ。危のうございます」

 多分林秀貞に意を含められていたのだろう。金森長近と蜂屋頼隆が信長の前を片膝立ちで頭を下げながら遮った。

 信長は二人の姿を冷たい目で見ていたが、中島の主将である梶川高秀に目を向け、

「ここには誰も近づかないよう見張りを置いておるな」

 と確認した。

「はっ、手配しております」

 梶川が答えると信長は居並ぶ近臣たちを手で招いて近づけた。彼らは片膝立ちとなって信長を囲む。

「今川本陣を攻める。狙うは今川義元の首一つ」

 自分を囲む近臣たちだけに聞こえるほどの小さな声で信長は言った。雨雲が出ており、大雨が予想されることから弓と鉄炮は最小限の装備とすること。弓兵や鉄炮兵には全員に槍や手槍など、中島の城内にある突撃用の武器も与えること。軍は愛宕山の麓までゆっくりと歩くような速度で進めるということ。麓では弓隊・鉄炮隊を前面に置きながら信長の命令があるまで決して動かぬこと。命令があれば矢合わせなどせず即座に全員で本陣へ向かって登ること、を簡潔に述べた。

「他にも策がある。この戦必ず勝つ」

 最後に信長は断言した。周りを囲む家臣たちは皆無言で頷いた。

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