第116話 信長、中島へ
今川勢の鬨の声は信長のいる善照寺まで響いていた。兵たちや見物人などからは騒めきがおこり、信長を囲む重臣たちは一様に口を閉ざしていた。
信長は感情の見えない顔で桶狭間の方を見ていたが、善照寺の主将である佐久間信盛に目を向け、言った。
「戦を見物している者どもを皆帰らせよ」
はっ、と信盛は頭を下げるとすぐに動き出し、兵たちに見物人を追い払うよう指示した。
見物人の中には今川の間者もいるだろう。これからの動きは身近で見られ、聞かれたくないという理由と共に、もう一つ理由があった。見物人が付城から散り散りに離れているところを今川義元たちに見せることで、別動隊による迂回奇襲策など、何かを仕掛けているのではないかと疑うだろう、という思惑だ。
見物人の中には大声で不平を言う者もいたが、兵が槍を振り回して追い出した。
見物人が三々五々に帰っていくのを見た信長は一人スタスタと歩き出した。後ろで並んでいた重臣たちも信長の後に従う。信長は厩まで行くと自身の馬にひらりとまたがった。
「その方らはここに残り、鳴海の動きを警戒せよ」
重臣たちに顔を向けて言うと、膝で馬の腹を押して馬を動かそうとした。
「お待ちくだされ。殿はどこへ行かれます」
林秀貞が信長の背中に声を掛けると、
「中島よ」
馬上の信長は振り向きもせずに言った。
「!」
驚いた林秀貞が信長の馬に駆け寄り、他の重臣たちも秀貞に続いた。秀貞は前に進もうとする馬の
「おやめくだされ。中島へ通じる道は両側が深田で、一騎ずつしか通れない細道ですぞ。しかも我らの軍勢が敵からは丸見えです」
秀貞にすれば必死だった。丸根・鷲津の付城が破られた今、中島の付城に行けば、桶狭間の山々にいる今川兵と鳴海城からの兵に挟み撃ちにされるおそれがある。しかも鷲津、丸根を攻略した今川兵は、このときどこにいるのかを把握していなかった。未明からの戦いで疲れているとはいえ、いきなり攻撃される可能性がある。その場合、一番危ないと思えるのが中島の付城だ。
他の重臣も秀貞にならい馬の周りを囲もうとすると、
「うざこい!」
馬上の信長は一喝し、手に持っていた鞭で秀貞の手の甲をしたたか打った。思わず秀貞が手をはずすと、
「我が勢、後に続け」
善照寺を真っ先に出た信長はすぐに
(これは雨が降るのではないか)
子どもの頃から野を駈け、市井に親しんでいた信長は、農民や漁師がしている天気の見方を自然に憶えていた。
風は西から吹いている。海がすぐ近いので潮風の匂いがするが、やや砂っぽい生暖かさも感じる。空を見ると、北西、清須や津島の方向は雲の量が増えているのがわかった。西はまだ少ないが、下から上へゆっくりと湧き上がるような雲があるのが見える。
(降るな)
しかも大雨のようだ。
信長はニヤリと口元を歪めた。
陽は天頂に到達しようとしている。
陽は天頂に達していたが、義元たちはそれを見ていなかった。彼らは善照寺から中島の砦につながる長い兵の列を見ている。織田の兵は一列となってゆっくりと中島へ動いている。
山の上にいる義元からだと、それは蟻の行列のようにも見えた。
「長いですな」
義元の傍らに控える朝比奈親徳が言った。愛宕山の山頂、今川義元の左右には朝比奈親徳と軍奉行の吉田氏好がいた。三人は織田軍の動きが見えるよう幕内に入ることなく床几に座っている。前後を近臣たちが囲んでいた。
義元は織田の軍列から目を離すことなく親徳の言葉に頷き、思った。
(やはりこちらを攻めようということか)
すでに何百という兵が中島砦に入っているはずだ。最初はどういう目的か分からなかったが、ここまで中島に兵を移動させるということは、
――まさか今更大高でもあるまい。やはり、ここを攻撃するつもりなのだろう。
義元はそう見ている。
と、山の下から駆け上ってくる兵がいた。
「申し上げます。織田の大将はすでに中島砦に入っておりました。先頭でした」
物見の兵は擦れるような大声で言った。ずっと走ってきたのだろう。息が上がっている。
口上を聞いた義元や重臣たちは皆一様に驚いた顔になった。
「先頭とは、最初に善照寺を出た騎馬兵ということか」
「はい、それが大将織田上総でした」
物見の言葉で義元は善照寺砦を最初に飛び出した騎乗の男を思い出していた。遠いため顔などは分からなかったが、あの男が信長だったのか、と思っている。しかし、主将が一番先頭を行くとは、常識では考えられない。
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