第115話 佐々、千秋、壊滅
戦国の戦いにおいて野次馬は付き物だった。熱田を過ぎたあたりから兵団の後ろについてくる者がおり、善照寺に着いた頃には相当な人数が集まっていた。
彼らは平気で柵の近くまで登り、立ったり座ったり自由な格好で桶狭間の方を見ている。
「ありゃあ佐々と千秋の兵だな」
という声は善照寺内だけでなく見物人の方からも聞こえていた。彼らは旗印や軍装をよく知っている。
「殿、あれは殿がお命じになったのですか」
攻めるような口調で林秀貞が言った。信長は如何にもうっとうしそうな顔になり、
「知ったことか」
と言った。信長としては林らに向けて「お主らの知ったことか」と言ったつもりだったが、彼らは信長も知らなかったと解釈したらしい。信長はそのことに気付いたが、それこそ『知ったことか』と何も言わずにいた。
佐々、千秋の軍は今川本陣まであと半分という程の距離になったあたりから速度を上げた。騎馬に合わせて早足が見る間に駆け足となり、山の際に近づく頃には全速力ではないかという勢いで本陣へと駆けだしていた。するとそれまで動きのなかった今川本陣のある愛宕山、その手前の高根山、そして両山の西向かいにある
今川は弓、鉄炮の遠隔攻撃が済むと即座に槍隊による突撃を始めた。山の中腹あたりから兵が動くのが見え、その整った隊形は、今川に優れた指揮官がいることを知らしめていた。
弓鉄炮の攻撃ですでに統制のなくなっている佐々、千秋の兵団は、ほとんど蹂躙されているようなものだった。
「無謀な」
柴田勝家が再び言った。信長は感情のない目で今川の攻撃をじっと見つめている。
「まずはお味方の勝利ですな」
今川義元の隣で立ったまま戦況を見ていた朝比奈親徳が言った。床几に座る義元は味方の兵が敵勢を散々に打倒しているのを見ながら、
「どう思う」
親徳には顔を向けずに言った。親徳は自分の髭をしごきながら、
「どうも、それがしにも分かりませんな」
こちらも麓を見つめたまま答えた。
実際分からない。信長が何を考えているのか。
戦いの最中に伝令が報告したところによると、先駆けの織田兵は佐々政次、千秋季忠の手の物とのことだった。
「どこかで聞いたような名だの」
義元が呟くように言うと、
「昨年秋に潰した氷上、正光寺両砦の主将だった者どもですな」
あまり間を置くことなく朝比奈親徳が答えた。彼は総大将としてそれらを含む三つの砦を攻略した。そのため直ぐに二人の名を思い出したのだろう。
左程時間を使うことなく戦いの決着は着いた。織田の敗残兵が散り散りに逃げ出し(その多くは中島砦に逃げ出しているように見えた)、残ったのは死骸だけとなったとき、義元は
(まさか責任を取らせたということか)
という思いが頭をよぎった。
「関係あると思うか」
親徳に顔を向けて義元が聞いた。親徳は麓に目を向けたまま
「いや、どうでしょう。もしそうだとすれば織田の大将は兵の無駄遣いをする御仁ということになりますな」
「まあ、それならこちらは好都合だが」
義元はそう答えながら、それにしてもやはりあの兵たちを使う理由が分からない、と思った。
こちらがこの戦いに気を取られている間に何らかの策を弄するつもりかと思い、念のため中島、善照寺、丹下の各砦とその周辺の動きに注意するよう松井宗信に使いを出していた。そして自身も三つの砦を見るようにしていたが、なんの動きもみえない。
一つ考えられるとすればこちらの防備体制を推測するということかもしれないが、たかが三百程への対応で、こちらの出方を推し量ることができるとも思えない。
と、松井宗信から戦い終了を告げる使い番が来た。
「お味方の大勝利でございます」
と使いの男は既に分かっていることを言った。しかし義元はさっと顔に笑みを湛え、
「ご苦労」
と言った後、すっと床几から立ち上がり、
「今の我らには天魔、鬼神もかなうまい。気分はよし」
軍団中に響けとばかりの大声を出した。そして腹帯に挿していた軍扇を右手に持ち、ぱっと開くとその手を高く突き出し、
「者ども、勝鬨じゃ」
やや腰を落としながら右手を一旦肩まで下げ、
「エイ、エイ」
「オー!」
義元と共に今川の兵たちが右手を大きく突き上げて呼応した。さらに義元が声を上げると、鬨の声はさらに大きく広がった。義元の本軍だけでなく高根山の松井軍や御林山の鵜殿軍などからも鬨の声が上がっていた。
三度目の掛け声を義元が上げたとき、鬨の声はまるで桶狭間周辺の山々からこだましているようだった。
(この声は間違いなくあの砦まで届いているだろう。さて、織田はどうでるか)
腹全体で出すような声の響きとは裏腹に、義元は冷静に善照寺砦を見詰めていた。
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