第114話 義元、桶狭間着陣
牛毛廻間からの比較的緩やかな上り道を今川本軍は進んでいる。塗輿に乗ったままの今川義元は目の前の御簾を閉じ、半眼のまま動かずにいた。子供の頃からの禅の修行で、輿の中でも禅定の境地を保っている。
沓掛城からここまでくる間、付近の村々の者たちが献上品をもって点々と道端に控えており、通りかかるたびに権阿弥が村名と献上の品を義元に伝えた。御簾の中の義元は何も言わないが、通過後、側近の一人が御礼の口上をし、献上品を大高城に運ばせた。
「結構ございましたな」
田楽狭間を越えたあたりで権阿弥が言った。御簾の中の義元は鼻で笑うような声音でそれに答えた。
「着きました」
しばらくして権阿弥の声が聞こえた。義元が「そうか」と答えると、塗輿がゆっくりと下げられた。
塗輿を降りて地面に足をつけた義元は、思わず「ほう」と声を上げた。
(いい見晴らしだ)
愛宕山は標高六十m弱の比較的低い山だが、北に向けて眺望が広がっている。
「あの東西に流れている川が扇川です。川の西の端、海につながる河口の向こう側に見える城が我が方の鳴海城、その手前にあるのが敵方の中島砦です。さらに鳴海城の右側、やや東に見えるのが善照寺砦、その向こうにあるのが丹下砦でございます」
すでに愛宕山に入っていた
「話には聞いていたが、本当に平地が続いているな」
「は、今北に見える平地から西に向けてがすべて尾張と聞きました」
鳴海城や善照寺砦は高台の上に築かれているが、その向こうは延々と平地が広がっている。しかも平地の大半は田地のようだ。空との境には山が見えず、ずっと地平線が続いている。これは彼の知る駿遠のどこにもない光景だった。尾張は修行で京に行っていたとき以来だが、こんなにも肥沃な土地であったのか。
「鳴海城のさらに向こうに、こんもりとした森のような所があるが、あれが熱田か」
「は、」
元政は少し考える素振りを見せたが直ぐに目を義元に向け、
「お待ちくだされ。鵜殿長門殿」
正確を期したいと思ったのだろう。大高城城主である鵜殿長照の名を呼んだ。
「は」
元政の後ろには朝比奈親徳や
「お久しゅうございます。大御所様」
片膝立ちで鵜殿長照が頭を下げると、
「ほんに久しい。苦労をかけたな、藤太郎」
義元が目を細めて長照に声をかけた。藤太郎は青年期からの長照の通称だ。
「いえ、大御所様にはお変わりなく、祝着至極に存じます」
「うむ、そなたも変わらぬな。気が
「は、ありがたきお言葉」
やや緊張した声で長照が答える。大高城での松平元康との交代は滞りなく行われたようだな、と義元は思いながら、
「ときに、あの茂みは熱田の宮でよいのかな」
「は、おっしゃる通りでございます。あれが熱田の宮でございます」
長照の答えに、まずはあのあたりまで行くのか、と義元は思った。
今回は織田との戦いの最前線といえる熱田まで進軍し、熱田の街を今川が完全に支配する計画だ。そしてゆくゆくは目に見える全ての地、つまりは尾張を今川のものとし、氏真につなげる。義元は北に広がる景色をもう一度見渡しながらそう考えた。
と、
「あれは何じゃ」
義元が指差して言った。その方向には中島砦があり、砦の中から一つの兵団が飛び出していた。どうやらこちらに向かって駆けてくるようだ。
「松井らに対応するよう伝えい」
義元が鋭くいった。伝令の兵がすぐに走り出した。
「大御所様、
鵜殿長照が一礼し、近臣と共に走り出した。他の重臣たちは皆義元を囲むように縮まり麓の動きを見た。
「およそ三百というところでしょうか。先駆け、というより抜け駆けかもしれませんな」
義元の隣に位置取った朝比奈親徳が言った。
「うん、しかし解せぬな。崩せるとでも思ったのか」
多分自分の旗印がこの本陣に上がったのを見て行動を起こしたのだろう。しかしそれにしても無謀な、と義元はこちらに向かってくる軍勢を見て思った。
「無謀な」
柴田勝家が呻くように言った。佐々政次、千秋季忠の軍が中島の付城から突撃する様子は善照寺からも見ることができ、あちこちで驚きの声が上がっていた。
中島の付城から小さな部隊が出ていき、早足の速度で桶狭間山の方向に向かうときからざわめきは始まっていた。それは善照寺に待機している兵だけでなく、その周囲で見物している農民や商人からも声が上がっていた。
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