第113話 信長、善照寺着

 信長は天白川を越え、小鳴海に入った。この地名、現在は古鳴海として緑区の町名に残っている。そこで信長は今川義元出陣の報を受けた。ちなみに本軍が出陣を始めたという報せはすでに受けていた。

冶部大輔じぶのたいふは何に乗っている」

 信長は注進に来た簗田弥次右衛門の手下に鋭く尋ねた。義元が三河守になったという情報は入っている。しかしわざわざ言い換える義理も必要もない。

「輿でございます」

 平伏している伝令は、緊張しているのか妙に甲高い声でそう言った。

「直に見たか」

「見ました」

「よし」

 信長の声に伝令はさらに頭を低くし、その場を退出した。

 沈鬱な表情の家臣たちに囲まれながら、鋭い目付きの信長は一人薄く唇を歪めている。

(やはり輿か)

 と信長は思っていた。つまり義元の行軍は遅い。多分今川の本軍が桶狭間山に着くのは巳の刻(午前十時近く)位ではないかと推測した。信長が善照寺の付城に入る時間にほぼ近いということになる。

 小鳴海を過ぎ、このまま真っ直ぐ行けば善照寺という道を信長は右に折れた。その向こうには丹下の付城がある。

 丹下に入った信長は、守将水野帯刀たてわき以下ほとんどの将兵に合流するよう指示し、すぐに善照寺へと進軍した。

 まだ朝といっていい時間なのに、すでに昼のような暑さになっていた。熱気の中、砂煙を立てて軍勢は進む。

 善照寺の付城に入ったのは予定通り巳の刻あたりとなった。馬を下りた信長は真っ先に物見櫓へ向かった。

 櫓に上った信長は、西にある鳴海城には目もくれず、南の方向を見詰めた。目線には桶狭間の山々がある。

(やはり、な)

 善照寺から桶狭間まで直線距離で約二・五㎞。一番手前に見える有松の山の頂上には物見台が築かれ、木々を伐採された高根山や愛宕山にはすでに幟が立ち並んでいた。よく見ると人の動きが蟻のように見えている。

「いつからだ」

 目を桶狭間山の方向に向けたまま信長が言った。信長の後から櫓に上がった善照寺の守将佐久間信盛はすぐに意図を察し、答えた。

「敵が集まり出したのは四半時ほど(約三十分前)前からです。その時分から幟も並び始めました」

「よし」

 信長の幼少期から重臣の一人として仕えていた信盛は「はっ」と一言答えると黙って信長を見ていた。このような時に口を挟んだりするとこの主君はかなり機嫌を害する。

(義元はまだ来ていないか)

 信長は赤鳥の旗印を探していた。赤鳥は垢取とも書き、女性が使う櫛が意匠になっている。これは今川家の家紋であり、大将である義元の居場所を示す幟旗の紋でもあった。

 義元の本陣であろう愛宕山を中心に信長はじっと目を凝らしてみたが、見つからない。義元はまだ本陣に着いてはいないようだ。と、

「申し上げます。今川治部大輔は田楽狭間を越え牛毛廻間うしけはざまに入ろうとしております」

 タイミングよく物見櫓の下で物見の報告の声が聞こえた。

「どこの手の者か」

 信長が大声で聞くと、

「川並の蜂須賀です」

 片膝立ちで物見が答えた。

「よし」

 鋭い歯切れの信長の声に物見は「はっ」と一礼し、その場を去った。

(よし)

 信長、今度は心の中で頷き、物見櫓から素早く降りると小姓の岩室長門守を呼んだ。

 信長は長門守に小さな声で二言三言指示すると、長門守は馬に乗って善照寺を出て行った。

 馬は中島の方向を向いている。


 中島の付城に着いた岩室長門守は、佐々さっさ政次まさつぐ千秋せんしゅう季忠すえただの二人を呼び、一室を借りて人払いをした。

「殿からのお言葉をお伝えし申す」

 胡坐の姿勢だった二人はその言葉で両手こぶしを前に出して床に着けた。

「殿は『始めよ』とそれだけを伝えるようおっしゃられました」

 二人はその意味が分かっていたのだろう。緊張していた顔をますます重くした。

「承知しました、とお伝えくだされ」

 千秋季忠がそう言うと、

「いえ、わたくしはこの場におります。殿からお二人をしっかり検分し、報告するよう承りました」

「そうですか。では我々が精進すれば、お約束はお守りいただけるということですな」

 実は岩室長門守は二人が何をするのかを信長から教えてもらっていなかった。しかし信長の小姓をしている彼は二人の顔付きと言葉から大体を察した。

(二人は死を命じられている)

 約束とは家名の存続だろう。この二人は以前に氷上と正光寺の付城を任され、今川に攻略されてしまった。その責任をとるということか。

「はい、わたくしもしっかりと見届けさせていただきます」

 岩室長門守は言った。彼自身も緊張し、二人を睨みつけるような顔になっている。

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