第112話 今川本軍、出陣

 信長が先頭になって織田軍は進軍した。源大夫宮を横目に南に進むと、すぐに海となる。そのまま浜辺を進めば鳴海への近道となるのだが、丁度この時は満潮で、馬や人が浜辺を進むには無理があった。仕方がない、という感じで信長軍は東に進路を変更し、大回りのルートを取った。

 しかし、この行動も信長は分かってやっていた。今川以上にこの辺りには詳しい。このとき海は満潮だということは浜辺まで行かなくとも知っていた。熱田には間違いなく今川の間者がいる。このように計画性のない姿を見せることで、『織田には策がない』と思わせることが出来ればと考えての行動だった。

 丸根陥落の急使が信長の元に着いたのは、熱田の街を出てしばらく東に進んだ中根村(現在の名古屋市瑞穂区中根町)あたりだった。

「丸根陥落。佐久間大学殿、討ち死になされました」

 必死の形相の使者が告げた。

「そうか」

 信長はそう言っただけだった。

 さらに信長が鳴海につながる道を進むと、彼方から騎兵がこちらに向かうのが見えた。

――敵か。

 信長は緊張した。今信長が通っている道は織田と今川の境界となっていたところで、近くには今川の最前線部隊が守る笠寺や桜の砦があった。今はほぼ全部隊がこの場所を移動していると放っていた物見から聞いていたが、残っている者がいるかもしれない。しかし、旗印は鷲津を守る飯尾のものだった。

 向こうもこちらに気付いたのだろう。馬の足を速めこちらに駆けつけてくる。

「飯尾近江守定宗の嫡男、隠岐守信宗でござる」

 信宗主従は馬を下りると、信長の馬の前でひざまずき、言った。

「おう、生きておったか」

 信長は馬上から信宗に声をかけた。

「はっ、父近江守、伯父織田玄番頭秀敏の指図により、恥ずかしながらわが身をながらえ、ご加勢に参上いたしました」

「よし、許す」

 信長はニッと笑顔になった。

 織田秀敏、飯尾定宗討死の報が届いたのはそれから間もなくのことだった。



 義元の本軍が沓掛城を出発したのは、これまでの出立よりも遅めの辰の上刻(夏至のこの日は午前七時位)だった。そして辰の中刻から下刻になろうかという頃(午前八時頃)、義元は尾張の軍勢が熱田の宮に集まっているとの報を耳にした。が、仔細は分からない。

 本軍は、ゆるゆると進軍をしている。義元はこの日も塗輿に乗っていた。三河のときと同じく、今川家が武将として格が違うことを尾張の民衆にも示すためだった。

 そのため、朝からひどく暑かったが、義元はきちんと鎧姿に陣羽織を着込み、御簾を上げて、周囲に見られてもいいようにしていた。

 織田軍が熱田の宮に集結したという報を受けてから半刻(約一時間)もしないうち義元に声がかかった。

「申し上げます。織田上総介の軍勢、熱田社を出発したとのことです」

「ほう」

 声の主である庵原元政は馬上で頭を下げている。

 義元は輿を止めさせた。

「報せた者はいるか。詳しく知りたい」

「はっ」

 元政は視線を後ろに移した。野良着姿の男が音もなく前に出てきた。野良着の男は義元の前で深々と平伏する。素破すっぱとも呼ばれる今川家子飼いの忍者で、尾張へは多数送り込んでいた。この戦いを始めるにあたり、その数はさらに増している。信長を中心とした尾張の動きは逐一義元の元へ届く手筈になっていた。

「集結した織田の人数は如何ほどであるか」

 義元は扇で口元を覆い、元政だけに聞こえるほどの音量で聞いた。元政は頷き、その男に同じ言葉を問いかける。男は頭を地面に下げたまま答える。その形で問答が続いた。

「熱田到着時には二百程の兵がおりました。少数とはいえ柴田、森など、織田の将兵も見受けられました。熱田出立時も追いつく兵がおりましたゆえ、今頃はもっと増えていると思われます」

「して、その中に確かに上総介はいたか」

「はい。始終外に出られるお方ゆえ、よく顔を存じております。見間違えるということはありません」

「そうか」

 義元は開いていた扇を無意識に閉じ、また開いて元政に問いかける。

「で、上総介は熱田に集まって何をしていた。出陣の式か」

「いえ、確かに上総介殿は拝殿に上がりましたが、三献などは挙げませんでした。ただ拝殿後士気を鼓舞し、兵たちは皆声を張り上げておりました」

「ほう」

 ある意味話に聞く通りのやり方だな、と義元は思った。

「熱田を出た織田軍はどのような道を進んだ」

「はっ、軍勢は一旦社を出ると海岸沿いに東海道の道を進みましたが、すぐに方向を変え、上手の道へと向かいました」

「上手?」

 義元の言葉に元政は

「上手の道とはどこか」

「東の方に進む道でございます。あの道ならば上野街道に入って南下し、丹下、そして善照寺の砦に進むのではないかと思われます」

「何故方向を変えたか分かるか」

「東海道は潮が満ちていたためと思われます。あの道は潮が満ちると通れませぬ」

「……」

 準備の悪いことよ、と義元は思った。わが今川にしても潮の満ち引きを計算して作戦を練っている。地の人間ならば潮の満ちる時間くらい知っていただろうに。

(ということは、まさか思いつきで進軍しているのか)

 そう思った義元は、思わず首を左右に振った。戦を始める時に敵を見下すのは気の緩みにつながる。

――喝!

 義元は心の中で自分に警策けいさく(座禅で修行者を叩く棒)を打った。この時義元の頭には、師である雪斎翁の顔が蘇っていた。

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