第111話 五枚の永楽銭と二筋の煙
熱田の宮に到着した信長は、小休止の後、戦勝祈願として重臣の林秀貞や柴田勝家などを引き連れ、本殿を参拝した。
拝殿に出てきた信長は、社の下で待機している兵に向かって高らかに告げた。
「皆聞け。我らがこの戦の勝利を祈っていたとき、社殿の奥から鎧の草擦りの擦れる音が聞こえてきた。熱田大明神が我らの願いを聞き届けられたぞ」
兵たちがどよめく中、信長はどこから取り出したのか五枚の永禄銭を高々と挙げ、
「疑いをもつ者もおるだろう。今我が持つこの永禄銭五枚、今から放り投げる。すべて表ならこの戦勝つ!」
叫ぶように言った瞬間、永楽銭をばっと上へ投げた。バラバラバラっと落ちるまでの間、兵たちはみな五枚の永楽銭に目を向けていた。社殿下の砂地に永楽銭が落ちると、兵の一人が恐る恐る永楽銭を見に行き、
「確かに、すべて表でござる!」
不必要なほどの大声が境内に広がった。藤吉郎の声だった。
「お――!」
兵たちはどよめきとも雄叫びともつかぬ声を挙げた。後ろにいる重臣たちも驚きの声を上げていた。間髪を入れずに信長は、
「この戦、勝つ!」
右手のこぶしを前に突き出しながら叫んだ。
「オーー!」
熱田の宮は雄叫びに包まれた。これがこの戦における出陣式だったといえるだろう。信長は言葉とは裏腹に冷静な目で兵たちを見回していた。藤吉郎の近くにいた兵たちがおそるおそる落ちた永楽銭を見ている。
「そこな猿、この永楽銭、集めて賽銭にしておけ」
信長が藤吉郎に目を向けて言った。
この二人、事前に示し合せていたわけではない。ただ兵の最前に藤吉郎がいるのを認めた信長が、そちらに向けて永楽銭を投げただけだった。五枚の永楽銭は二枚の永楽銭を貼り合わせて両方表にしたものだ。藤吉郎ならすぐにそれを察し、的確な対処をするだろうと思っている。
拝殿を下りた信長はまっすぐ馬に向かった。日の高さは辰の刻(午前八時、ただし夏至のこの日は午前七時半頃)を指している。兵は今も集まってきている。信長はすでに次の事を考えていた。
鬱蒼とした木々に囲まれた熱田の宮を南に進むとやや急な坂道があり、降りるとすぐに
信長が境内の森を抜けてその坂に差し掛かった時、東から南へと続く小高い山々の連なりから灰色の煙が二つ立ち上がっているのが見えた。ほぼ南、海につながる連なりの終わり、鷲津・丸根のある方向だ。
(落ちたか)
信長に感慨はない。あるのは現状認識だけだった。
今川勢が最初に攻撃を仕掛けるのが鷲津・丸根の付城であることは今川軍の出陣前から知っていた。その軍は朝比奈泰朝を大将とした西遠江と三河の混成軍であることも、その中に松平元康がいることも把握している。当の松平元康から情報を得ており、簗田弥次右衛門配下を始めとする様々な諜報から確証も持っていた。
そして信長は、どちらの救援もしないことに決めていた。それは鳴海・大高を囲む付城づくりを考えていた時から想定していることだった。
大高城を囲む二つの付城を短時間で落とそうとするなら、少なく見積もっても三千の兵を必要とするだろう。信長が今川本軍と対峙するとき、その半数以上が本軍の中にはいないはずだ。落とした付城の後始末や大高城への備えがあるためだ。
つまり、朝比奈軍の半数以上が信長の意図する戦いに参加しないことになる。
そもそも信長が今川本軍を標的にしていることは、敵味方共に分かっていないだろうし、信長も推測されないように行動しているつもりだ。信長の目的が分からない限り、今川はうかつに動くということをしないだろう。そしてこちらがどんどんと近づいていってもその意図が読めないようにしたい。
そのため、今川軍が幸先よく津・丸根を落とすことで、
――信長に策なし
と見くびってもらいたかった。そのために前夜の評定では何も図ろうとはせず、救援を送ることはもちろん両付城への指示もしなかった。
(何も言わなくとも、佐久間や大叔父殿は敵に後ろを見せることはないだろう)
と信長は思っていた。義元を誘い込む戦場を桶狭間山に定めた時から、大高、鳴海を囲む付城は今川軍を引き寄せるための餌だった。
特に大高城を囲む付城は、清須から遠いという位置的条件から最初に攻撃される可能性が高かった。そのために佐久間大学、織田秀敏という武骨な男を守将に選んだ。
何があっても逃げない、と見込んだためだ。
あれだけの煙が上がっているということならば、丸根、鷲津はどちらも既に落ちている。付城を攻略した西遠江、三河の兵がどれだけ損耗したかは分からないが、すぐに次の戦いの準備をするという事は難しいだろう。
そして義元は、信長たちが清須を出たという報告を既に得ているはずだ。そのため信長はあえて今川の間諜を取り締まる指示をしなかった。もし自分が義元なら、まっすぐ大高城へは向かわず桶狭間山の陣地で織田の様子を見る。
義元でなくとも信長は鳴海に向かっていると予測できるだろう。
義元は、そうするに違いない。
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