第110話 熱田の宮

「で、鷲津のことは聞いておるか」

 義元は末席で控えているはずの庵原元政に声を掛けたが、そこに

 元政はいなかった。

 代わりに別の近習が答える。

「は、鷲津は砦を固く閉ざしておりましたが、ようやく曲輪の一つに攻め入ることが出来たと聞いております。もう間もなく落ちたという報がやってくるかと思います」

「そうか」

 義元がそう言ったとき、座敷の板戸が開き、庵原元政が中に入ってきた。

「申し上げます。今暁清須の城を出た織田の軍ですが、目指しているは熱田の宮でした。また、兵の中には大将織田上総介もおり、一番始めに城を出たのが上総介と少数の近臣だったということでした」

 座の中から「ほう」という声が響いた。兵たちの目指す場所が清須と鳴海・大高の中間地点といえる熱田で、その中に信長がいることは誰もが予想できた。しかし信長が先頭で城を出たという報告に驚いた。

「熱田ということは、今頃鷲津、丸根の救援ですか。訳の分からぬ御仁ですな」

 朝比奈親徳が義元に言うと、

「いやどうでしょう。我ら本軍がこの沓掛にいることは織田も承知しているでしょう」

 関口親永の言葉に、

「しかし我らに向かって来るとは考えづらい。鳴海の砦への増援とか」

 瀬名氏俊が重ねて言った。氏俊はこの戦いで後詰を担うことになっている。

「かもしれぬ。しかし下手をすれば我らと鳴海に挟み撃ちされることになる。いくら織田の大将が若いとはいえ、それ位は分かるはず」

 朝比奈親徳は髭をしごく癖を見せながら言った。親徳の言葉に義元は

――まさか、

 と思ったが、口にはしなかった。織田信長は我らを直接狙うために動いているのではないか。しかし、確信がない。

「我らを攪乱しようとしているのかもしれぬ。やることが子どもっぽいとは申せ、いろいろな手を打ってくる男だ。油断だけはせぬように」

 手に椀と箸を持ちながら、くぎを刺すように義元が言い、少し考えて言い添えた。

「そう、例えば散り散りに来るように見せて、実は二手三手に分かれて進軍しているやも知れぬ。そのあたりも物見には気を付けさせよ」

「大御所様、では本日の行軍は」

 いくさ奉行の吉田氏好が聞いた。織田が清須から動かない場合は大高にまっすぐ向かい、途中丸根と鷲津の検分をする予定となっていた。

「熱田に行くということは、織田は鳴海を囲む砦に向かおうとしているのではないか。何と言ったかな」

 義元が板戸の前で控えている庵原元政に目を向けると、

「丹下、善照寺、中島でございます」

 元政は鳴海を囲む三つの砦の名を答えた。

「そうか。なにが目的かは分からぬが、その砦に入る可能性が最も高いように思える」

 義元はまた少し時間を置き、

「吉田殿、やはり今日は桶狭間の陣に出張った方がよさそうだ。元々は明日の戦いのつもりで作った陣だが、こういうことは戦ではよくある」

 義元は公家出身の軍奉行に噛んで含めるように言った。桶狭間にある愛宕山の陣は翌日に予定している鳴海周りの三砦攻略の際、戦を督励するために設置した。しかし今日、織田勢が鳴海周辺に進軍した場合、対陣する場所とすることも対応案として考えられていた。

 その場所は丹下、善照寺、中島の周辺を眺めることが出来(実際は中島砦の南側は山に隠れて見えないのだが)、本陣に向かってきた敵を三方の山上から迎え撃つことができる。

美作みまさか、そのこと主だった者たちに伝えておけ。おのおの方もそのつもりでいるように」

 義元は庵原元政に命じ、家臣たちを見回しながらそう言った。



 信長が三里(約十二㎞)の道を駆けて熱田の宮(熱田神宮)に着いたとき、付き従っていた兵たちは二百ほどに増えていた。そして信長が着いた後も、兵たちは次々と熱田に集まってきた。

 熱田神宮は歴史が古く、創建は第十二代景行けいこう天皇の御世だといわれている。歴代天皇が継承してきた三種の神器の一つ、草薙剣くさなぎのつるぎを御神体と祀っており、古くから崇敬を集めてきた。

 草薙剣は日本の皇祖神である天照大神あまてらすおおかみの弟素戔嗚命すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろちを退治したとき、大蛇の体内から取り出した剣だと伝えられている。そして日本武尊やまとたけるのみことが東征を果たした際、この剣を携えていたともいわれていた。

 つまり熱田神宮は、戦勝祈願にうってつけの神社であるといえる。

 しかし信長にすればそのような理由で熱田を集合場所にした訳ではなく、誰もがすぐにわかる目印として選んだ。

 この現実主義者リアリストは、神仏というものをまるで信じてはいない。

 しかし、利用はした。

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