永禄三年五月十九日 桶狭間

第109話 出陣前の今川義元

 永禄三年五月十九日、この日は現代の暦(グレゴリオ暦)だと六月二十二日にあたる。夏至だった。朝から既に暑かった。

 日の出前に目を覚ました今川義元は、沐浴を終えるといつものように化粧けわいをした。終えると、義元は側に控える鎧姿の庵原元政に状況を聞いた。

「朝比奈左京亮さきょうのすけ殿の軍は定刻どおり鷲津、丸根を攻撃。最初は難儀した模様ですが次第に我が方が優勢。まもなくどちらも落ちるだろうということです」

「そうか、で、清須の様子は」

「は、それが実ははっきりとしません」

「ん、どういうことか」

「は、今暁幾人かの騎馬武者が清須の城を出、東の方へ向かった模様で、その後次々と武者たちが清須の城を出たそうです。出陣の法螺や太鼓はなっていたそうですが、あまりにも散り散りで、出陣といっていいのかどうか、という報告でした」

「ほう、面妖な。で、その中に上総介はおったのか」

「は、最初に城を出た騎馬武者の一人が織田上総だったという報告があります」

「ふむ、そういえば」

 義元はふと今年正月にあった品野城落城の話を思い出した。

「あれと同じではないのか」

 義元がそれを口にすると、元政もすでにその可能性を考えていたらしく、

「確かに似ております。しかし品野の事を知る間者も、今朝ほどバラバラではなかったと申しておるそうです。とにかくその兵たちがどこへ向かったか。そしてその中に上総介がいたかどうかは目下確認させております」

「うむ」

 義元は脇息に深く凭れかかると暫く沈思していたが、

「後は、何かあるか」

「は、今のところは。織田の動きは気に掛かるところですが、まずは予定通りと思われます」

「分かった」

 義元は脇息に凭れたまま、

「そうじゃ、丹波(朝比奈親徳)ら主立つ者を呼んで参れ。一緒に朝食としよう」

「はっ?」

 元政が少し驚いた顔になった。これから戦が始まるというときに、重臣とはいえ家臣たちと一緒に朝食を食べるということは珍しい。

 義元自身、なぜそうしようとしたのか自分でも分かってはいない。人に聞かれれば、

『なに、余裕よ』

 とでも言っただろうか。

 確かにこの日、本軍が入る予定の大高城は沓掛から四里(約十二キロ)ほどの距離しかなく、ゆっくり進軍しても差し支えない行程だった。ただ今日の進軍は、織田信長軍との交戦の可能性があり、その場合義元の本軍は桶狭間山に本陣を据える予定となっている。義元の本軍も織田の兵と矛を向けあう機会が全くないとは言えない。

 義元は、だからといってこれからの戦いに覚悟をもって臨むという気持ちはなかった。

 すでにそんな状況も想定の中の一つに入っている。そのための準備も進めてきたつもりだ。何よりも戦における大将の仕事は、本陣で悠然と構えていることだ、と思っている。戦の最中に大将が覚悟を持つような状況は、寧ろあってはならないとさえ考えている。

 では何故このときに出陣の準備を進めているであろう重臣たちと食事をしようと思ったのか。理由はない。気まぐれと言うしかない。しかも義元は、自分のそんな微妙な心理に気付いてさえいなかった。

 平伏を解いた庵原元政が部屋を出て行こうと立ち上がると、

「そうそう」

 義元は呼び止めるように声をかけ、

「具足はまだよいと伝えてくれ。そなたの姿を見ておるだけで大汗を掻きそうじゃ」


 丸根砦陥落の報が義元の元に届いたのは重臣たちと朝食をとっているときだった。

「これはまた、幸先のいいことでありますな」

 副将格の朝比奈親徳がそう言った。義元は微笑で応えた。

「それにしても関口殿、婿殿はなかなかいい働きをなされますな」

 親徳は斜め向かいの膳に座っている関口親永に声をかけた。松平元康を娘婿にもつ親永は持っていた箸を膳に置き、

「皆々様のお引き立ての賜物でございます」

 と頭を下げた。

 義元は笑顔で親永を見ながら

(丸根が先になったか)

 と本心では思っている。

 籠城を図った鷲津に対し、丸根は敵が砦から出て戦ったと報告があり、朝比奈泰朝の本隊が加勢したということも聞いてはいた。

 しかし大高城への兵糧入れという不利な条件もある中、この短時間で砦を落としたのはたいしたものだといえる。

(此度は三河勢を使いまわしたいとは思っておったが、ちょっと考えねばならぬか)

 義元は恩賞のことを考えていた。そして、政治を考えている。これ以上松平が武功をあげれば、家臣たちは元康の三河帰還と岡崎城の返還を求めてくるに違いない。

 元康を三河に戻すことはやぶさかでない。今回の戦いの褒賞として三河一国を与えるということも既に考えている。但しあくまでも形式的なことで、元康を岡崎に戻すつもりはない。尾張を完全に掌握すればそれもよいとは思っている。しかし、義元にすれば出来るだけ恩を売って返しておきたかった。自力で岡崎に戻ってきたと思われるのは後々困る、と思っている。

(とりあえず今日は三河勢を使わないようにするか)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る