第107話 佐久間盛重の死
戦場に朝の光が注がれる中、丸根砦の一角から白い煙が立ち始めた。ほんの小さな煙ではあるが、それまで勇猛果敢に突撃を繰り返していた織田の兵たちが明らかに動揺した。
(やっとか)
と元康は思った。
大高城に兵糧を運んだ小荷駄隊が戻ってきてからは完全に状況が変わった。バラバラに戦っていた織田兵はそれまでも押され気味ではあったが、小荷駄隊が戻ってからは丸根砦に戻ろうとする動きが見られた。中にはどこかへ逃げている者もいる。
ちなみに後ろに控える朝比奈泰朝の援護軍はその場を動こうとしない。しかもその大半は水野信元・信近の兵のようで、そのことも元康を不機嫌にさせている。
しかし織田の兵にとってはそれも脅威に感じる一つの要因なのだろう。
三河の兵はじりじりと丸根砦に近づいていた。丸根砦からは弓や鉄炮、石つぶてなどでの抵抗があったが、崩れるのは時間の問題だった。そして、砦の中からの煙だ。
山々に囲まれた東を背後とする松平元康には、いつ朝日が昇ったのかは分からない。ただ西の方向、丸根砦のある山から大高城のやや南にある山々までの間に海が見えていた。
海は朝日を反射し、静かな波がキラキラと輝いて見える。元康はそれを美しいと思える余裕をもつことが出来るようになっていた。
大高城からも鷲津・丸根の戦いはよく見えていた。城主の鵜殿長照は兵糧の整理と自軍の出陣の手配を終えると、城の物見台に上り、両砦の戦いをずっと見ていた。
「ほう、丸根から煙が出てきたな」
鎧姿の長照は独り言のようにそう言うと、側に控えていた家臣に命令した。
「丸根は形勢が見えた。鷲津もそのうち落ちるだろう。現状を沓掛の大御所様、鳴海の岡部殿に注進せよ」
二十代後半の長照はまだまだ意気軒高。目の前の戦いを見ながら血液が熱を持って上昇しているのを感じている。
(早くこの戦で功を成したい)
逸る心を必死に抑えていた。
長照の母は義元の妹で、つまり長照は義元の甥にあたる。だけに、義元に認められたい、という気持ちは人一倍強かった。
(なに、この戦が終われば大御所様に合流し、自ら織田を攻めることが出来るのだ)
長照はそう思っていた。今日大御所様はこの大高城に陣を取り、明日から鳴海、そして熱田へ攻めあがると聞いている。そのときに武功を立てればよいのだ、と自分に言い聞かせていた。
(我が戦はこれからだ)
長照は武者震いといえる体の
丸根の付城を守る佐久間盛重は全身血だらけだった。そのほとんどは敵の返り血だ。彼は付城の中から自軍の指揮をしていたが、敵兵が付城の土塀に取り付いたと見るや、自ら槍を振るって敵へと向かった。
しかし、敵は盛重が捌けないほど次々と中に入ってきた。盛重の周りを囲んでいた家臣たちは一人減り、二人倒れ、今や彼を守るものは誰もいない。
しかし、この時の盛重にはそんなことはどうでもよかった。
(如何に死ぬか)
それだけが彼の全てだった。
鎧姿をめがけて敵兵が集まってくる。盛重は槍一本でそれらを突き、叩き、なで斬りにする。
と、落ちていた槍に足を滑らした。彼自身は気付いていなかったが、疲労で体のバランスが大きく崩れた。すかさず敵の一人が盛重に槍を向ける。
盛重は背中に衝撃を感じた。
「むっ」
一声うめく。しかしすぐに体勢を戻すと前にいた雑兵の頭を思い切り叩き割った。
次は腰の辺りに衝撃を感じた。見ると槍が突き刺さっていた。胴と草擦りをつないでいる
(ほう、うまく刺したものだ)
盛重は思った。槍を刺した男は、驚いたような顔でこちらを見ている。
(なんだ、たまたまか)
頭の中で苦笑しながら周りを見渡すと、見えるのは敵ばかりだった。
腰が燃えるように熱い。背中と腰から気が抜けていくのを感じた。
「控えい!」
彼は大音声を上げた。周囲がひるんだ。
「我は丸根の
盛重はにやっと笑って敵の群れを見渡した。一瞬敵兵の動きが止まったが、すぐに彼に向かって無数の槍が突き出された。
その体がどっと倒れたとき、佐久間盛重はすでにこの世の人ではなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます