第106話 日の出
まだ陽は出ていない。しかし群青色の空は時間がたつごとに明るさを増していく。
陣触太鼓の音が城の内外に響く中、城門を馬で駆け抜けたのは信長と五人の小姓だけだった。
岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、加藤弥三郎。
主従六名は、清須の街を馬の
一方、城の内外は法螺貝や太鼓の響きによって一気に戦闘体制の騒がしさに変わっていた。
城を出る前に信長から指示を受けた池田恒興らの近習は、大声で城内を触れ回る。
「殿は既に出陣されました。各々方すぐにご出陣を!」
寝ている人間がどれだけいたかは分からないが、通常の寝起きにはまだ早い。誰もが慌てはしたが、上洛や品野城攻略など何度か同じようなことがあったため、さほどの混乱にはならなかった。
ただ、戦支度や各部隊の集合など、出陣にはかなり時間がかかりそうだった。
留守居の兵は清須城の各所に集まり、戦闘隊はみな信長の元へと急いで支度をする。
清須の喧騒は朝日が昇ったあとも続いていた。
既に空は明るく、東の丸根砦と西の鷲津砦はどちらも戦いの全容が見渡せていた。
朝比奈泰朝はもともと正光寺砦のあった小高い山のすぐ近くに陣を張り、床几に座りながら両砦の様子を眺めていた。砦づくりから一年もたっていないことから背の高い木々が周囲に少なく、両砦を見るには非常に都合が良かった。
「そろそろ日の出か」
丸根城のある山々の向こうの空は、刷毛でさっと刷いたような薄い雲がいくつか棚引き、橙色の光の帯が山の上に広がっていた。
既に大高城への兵糧は運ばれ、戻ってきた小荷駄隊は丸根砦攻略に加わっていた。砦の兵との戦いは麓の方まで広がっている。その様子を見ながら、
(勝ちが見えてきた)
と泰朝は思った。それまで勢いのあった織田の軍勢は俯瞰で見るとバラバラに戦っていることが分かる。対して味方は連携しながらじわじわと敵を追いつめている。これまで敵の勢いに我慢していたが、そろそろ砦の方へ追いつめていくことになるだろう。
泰朝は目を鷲津砦の方向に移した。
井伊たちの兵は山の裏側に戦いの場を集中しているため詳しくは分からないが、目に見える動きからまだ突破できていないだろうと予想できた。砦の中の動きはまだ大きくない。
(大御所様が出陣なさるときには、いい報告をしておきたいものだが)
泰朝がそう思ったとき、三河あたりの方向から朝日が昇ってきた。あまり動いてはいないのに、すでに泰朝は体が汗ばんでいるのを感じた。
(今日も暑くなりそうだ)
泰朝は昇る朝日に目を向けていた。
清須を出てまっすぐ熱田へ向かっている信長がふと顔を横に向けた。
(日の出か)
五月十九日、夏至の朝日が昇り始めていた。
東に見える山々の連なりの中から丸い太陽が放射状の光を放っているのが見えた。空も既に朝の明るい青になっている。
しかし、信長は情景に感情をもつ意識がない。頭の中にあるのは現在の状況からの予測と計算だけだった。
(今、卯の刻、丸根・鷲津はどこまでもつか)
今川軍は現在この両付城を攻撃し、兵糧を大高城へ運んでいる。つまり今日義元は大高城へ入ろうとしている。丸根・鷲津が片付けば、すぐにでも鳴海周辺の丹下・善照寺、そして中島の付城を攻撃するだろう。それとも明日か。
(多分、明日だろう)
王道で考えるとそうなる。義元なら焦る必要はない。兵を休め、軍勢を変えるなら、余裕を持って行動する。
以前より松平元康から情報は得ていた。だから信長はこの予測をすでに何回もしている。
もし信長が清須から動かなければ真っ直ぐ大高城に入るに違いない。そして明日、体制を整えて鳴海周辺の付城を攻略するだろう。
(しかし今、俺は馬上にいる)
信長が鳴海に向けて進軍していると報告を受ければ、義元はきっと桶狭間の山々の陣幕に移動する。元々は鳴海周辺の付城攻略を監督するための陣幕だろうが、今信長が鳴海に向かっていることを知れば、義元はその陣幕で様子を見ようとするだろう。
信長にとってはそれが付け目だった。
信長は義元本軍への直接攻撃を考えている。
そのため義元本陣の動きは逐一信長の耳に入るよう手配している。
――トンボを捕るには、トンボがどう動くのかを予測し、そのどれにも対応できるようにすることだ。
トンボが動くのを見ながらその後を追いかけても捕えることは出来ない。むしろトンボの動きから止まる場所を予測し、羽を休めた時を狙って一挙に捕える。
信長は耳たぶを握った時の吉乃の顔を思い出した。あの驚きの表情を義元らにさせることが出来るか。これによって勝敗が分かれる。
と、
「柴田権六、参上仕りました!」
怒鳴るような大声で柴田勝家の馬が横に付いてきた。
「権六、一番乗りぞ」
信長も大声で声をかけると勝家は「御免」と一言言い、信長の馬よりも早く駆けだした。護衛のつもりだろう。勝家は少数の家臣だけを引き連れ、ある程度の距離をとると信長の速度に馬を合わせた。
次に来たのは丹羽長秀、そして森
(出来ることはすべてやってきたつもりだ。後は運を天に任せる)
信長は前後を囲む重臣たちの姿を見ながら、そう思った。
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