第105話 敦盛
丸根の向こうに広がる空が明るくなり、山の稜線だけでなく、木々の色合いも見えるようになってきた。夜はそろそろ白み始めようとしている。
(こちらが何も出来ぬ間に丸根が落ちてしまえば、後は何をしても手柄とならぬ。仕掛けねば)
直盛がそう思ったとき、親矩の声が聞こえた。
「これはもっと兵を搦め手に集中した方がいいかもしれませんな」
「確かに」
直盛は呟くように答える。
高さ三十m程度の丘陵といっていい山の頂上にある鷲津砦の主郭は、東西二十五m、南北二十七m、二十五mプールを二つ並べた位の面積があり、その下の段にある曲輪を含めて四百余人の守兵がいる。
直盛を大将とした西遠江勢は南に向いて大高城を監視している鷲津砦の裏側、鷲津から見て北と西に兵を集中している。
しかし頂上にある砦の主郭は守りが固く、しかもどこから攻撃するにしても急な山なので駆けあがるという事がやりづらい。
(しかしあの砦は大高の城を見張るためのもの。穴を
直盛は親矩に声をかけ、具体的にどこに兵を集中させるかの検討を始めた。
信長は寝ていた。本当に眠っていた。
「殿、鷲津からの注進でございます」
小姓の岩室長門守が信長の寝所に出向き、板戸の前で大声を上げた。
信長は跳ね起きた。
注進の内容は分かっている。今川勢が攻撃を始めたということだろう。
「
「夜明け前、寅の後刻です」
「よし」
信長は洗面、厠を済ますと、使者の待つ控えの間に向かった。廊下では空の闇がやや緩むのを感じた。夜が明けようとしている。
控えの間には二人の使者が待っていた。丸根の注進も着いていたのだろう。
「申し上げます。鷲津の付城に今川勢が攻めを始めましてございます」
「同じく、丸根も始まりました」
「わかった。下がって休め」
信長は何も聞かなかった。聞くこともなかった。
二人の使者は顔を上げ、鷲津の使者が訴えるように、
「我ら、帰りとうございます。お許しくだされ」
そう言い、再び深く頭を下げた。
「許す」
信長は真顔で言った。士気は衰えていない。そう思った。
二人の使者が出て行った後、信長は命令した。
「鼓をもて」
鎧姿の近習や小姓たちが「はっ」と一斉に頭を下げ、一人が鼓を持ってくる。これを小姓頭の岩室長門守が受け取り、肩の上に構えた。
信長は帯に挿していた扇を手にするとこれを開き、低く朗々とした声を響かせた。
人間五十年 下天の内をくらぶれば
幸若舞『敦盛』の一節。
『人の世の五十年は下天(化楽天)の一昼夜に過ぎず、夢幻のようなものだ』という人生の儚さをうたったものだが、信長の解釈は違う。彼の舞には『覚悟』があった。
人は死ぬ。自分も例外ではない。信長の心肝には常にこの真実がある。だが恐れや諦めはない。達観と呼ぶには鋭く青白い炎が彼の中で灯っている。
腹の底から響くような独特の声色と節回し、そして手馴れた仕草で信長は舞う。
鼓は信長の声と動きに合わせ、巧みに打ち鳴らされる。
その場にいるのは小姓だけ、信長は誰でもない自分のためだけに舞っている。燭台の灯だけが、信長の舞を静かに照らし出していた。
滅せぬ者のあるべきか
信長は扇を閉じると隅に控えている小姓たちに声を張り上げた。
「
はっ、と小姓たちは一斉に散らばる。
二人の小姓、長谷川
(戦が、始まる)
信長は思った。感慨はない。二人の小姓は手際よく信長に具足を付けていく。
法螺貝の次に太鼓が打ち鳴らされた。陣触れの音が辺り一面に轟きわたっている。
「湯漬け!」
信長の声に控えていた一人の小姓、加藤弥三郎が控えの間を出、しばらくすると盆に載せた湯漬けの椀を持って戻ってきた。
このとき信長は腰から膝までを守る
次に信長が両手を真横に広げると、小姓二人は左右一人ずつ籠手をつけ、
控えていた加藤が大小を信長に渡す。受けた信長は腰紐にそれを挿し込んだ。
長谷川橋介が
既に出陣のための三宝は用意されていたが、信長は目もくれない。信長にとって出陣の儀式はすでに済んでいる。
「馬引けい!」
信長は声を上げるとそのまま厩へと歩き出した。
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