第104話 丸根砦、そして鷲津砦の戦い

「備えよ、敵兵の突撃じゃ」

 正兵主将の家広がしわがれ声を出したのと丸根砦の門から織田兵が突進してきたのとがほぼ同時だった。家広の正兵や攻撃隊、遊兵を合わせて約二百、ここに丸根砦を守る四百ほどの織田兵がどっと駆け下りてきた。

 本陣の元康、この状況を見て戦慄した。

(下手すれば負ける)

 と思った。元康の眼には丸根砦から次々に人がこぼれ落ちているように見えている。まるで滝のようだ。

「首は要らぬ!まともにぶつかるな!横から討て!」

 元康はすばやい頭の回転で命令した。いちいち首をとっている余裕などはない、突進する死兵に正面から対応しても勢いに巻き込まれるだけだ。

「はっ」

 馬廻りの一人が一礼すると、命を伝えに戦場へと足で駆ける。

「堪えてくれよ。大高への兵糧入れが済めばその兵は戻ってくる。そうなればこっちのものだ」

 自分自身に言いつけるように元康は呟いた。

「ですな」

 冷静な声で横の石川数正が返事をした。しかし元康にはその声は聞こえていない。

 戦いは早くも混戦模様だ。

 元康は無意識に爪を噛んでいる。右手の韘は既に親指がボロボロになっていた。横で控える石川数正が、

「殿」

と度々声をかけ、元康はその度に動きを止めた。だが、やがてまた爪を噛みだしている。

 戦いは明らかに松平側が劣勢だった。勢いのまま攻撃してくる織田兵を食い止めるのが精いっぱいという形勢で、バラバラになって戦っているように見える。

「大丈夫か」

 元康が言うと、もう一人元康の側にいた酒井忠次が、

「もう少々ご辛抱くだされ。じきに大高の兵が戻ってまいります」

 と声を掛けた。と、

「よろしければ、援軍を送りましょうか」

 朝比奈泰朝の目付が言った。腹が立つほど落ち着いた声だ。しかし、確かに今のままだと小荷駄隊が戻ってくる前に本陣が襲われるかもしれない。

 元康は目付に目を向けるとしばらく目を泳がせていたが、左右の家臣に目を配り、そして言った。

「お頼み申す」

 周りは感情のない声に聞こえたかもしれないが、元康にすれば絞り出すような言葉だった。


 その頃、鷲津砦。

 この砦は丸根砦から六百mほど西北にある。

 井伊直盛を主将とする軍二千は元康の軍に先行して行軍し、砦の周りを囲い込みながらほぼ東向かいとなる山(現在の大高町伊賀殿辺りか)に本陣を張った。

 鷲津砦との間には崖といっていいほど急勾配の谷があり、南を見ると丸根砦を望むことができた。西遠江軍は松平軍とほぼ同時刻に砦を囲んでいる。

 しかし、鷲津砦は、動かない。

 主将飯尾定宗とその息子信宗、そして織田秀敏は丸根砦とは逆に、籠城策を採っていた。

 秀敏、定宗は兄弟で、共に信長の祖父である信定の弟だ。つまりは二人とも信長の大叔父にあたる。当初は秀敏が鷲津砦の主将を務めていたが、一時病を得、主将の地位を弟の定宗に譲っていた。しかしこのとき秀敏は病を押して鷲津に戻っていた。

 二人の老武将は豊富な戦の経験を持っている。自然、柳に力を入れても押し倒せないように、井伊たちの兵はなかなか砦に入ることが出来ない。

 意外な守りの堅さに、井伊直盛は床几に座りながらしきりに頭を掻いていた。

「どう思われる。新野にいの殿」

 直盛は隣の床几の新野親矩ちかのりに声をかけた。

「これは、弱りましたな」

 親矩は答えた。言葉とは裏腹にどこかのんびりとした口調だ。

 直盛よりもやや年上のこの男は今川家の直臣で、井伊の目付役としての役目を担っている。しかし親矩は長年井伊谷いいのやに滞在し、彼の妹を直盛は正室にした。直盛にとって親矩は完全に信用のおける相手になっている。

 直盛はフッと微笑み、正面の鷲津砦に再び目を向けた。

(こちらも敵をいぶり出さないと、三河の若造に後れをとってしまうな)

 さっきまではあせりをもって思っていたことを、やや落ち着いた気分で考えている。

 丸根の織田兵はどうやら砦を打ち捨て攻撃を仕掛けているらしい。戦いの中心になっているであろう丸根の山の麓は見えないが、喚声や怒声、様々な戦いの音がこちらまで響いてくる。多分三河の松平は苦戦しているのだろう。

(とはいえ、三河の後ろには朝比奈がいる。敗れるということはなかろう)

 当然朝比奈はこちらが苦戦してもすぐに援軍を送ってくるだろう。当たり前のことではあるが、こちらにすれば恩を売られるということになる。あまり気分のいいものではないし、後々が面倒そうだ。

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