第103話 夜明け前、開戦

 もちろん丸根砦のこの状況を元康は知らない。兵は月明りの下粛々と大高道を進んでいる。

 元康は、部隊を大きく二つに分けていた。

 一つは兵糧隊。これは兵糧を大高城に運ぶ荷駄隊とそれを援護する兵たちで編成されており、戦場に向かうこの時も兵糧隊はその陣形で進んでいる。その数約八百。

 そしてもう一隊は丸根砦を攻撃する部隊。これは兵糧運びの目を逸らすための役割も担っている。その数約二百。

 夜の闇は、夜明け前の今が一番深い。

 山道を越え平地に出ると、右手に山々の黒い影があった。手前、そして一番奥の影の周囲に赤々と燃える篝火が見える。

 手前の篝火が元康たちの攻める丸根砦であり、奥の火は井伊などが担当する鷲津砦だ。

 丸根砦は大高城をほぼ西に見下ろす小高い山の上に築かれていた。東西三六m、南北二八m、その周囲には幅三・六mの外堀を巡らせている。

 曲輪の周りに相当数の篝火が焚かれており、兵が持っているのであろう松明の動く火も見受けられた。

 元康は馬を下り、本陣として急造の幕を張った小高い山に登った。ここから丸根砦は谷を挟んで真向いの位置にある。

 床几に座る元康は、目付として松平本陣にいる朝比奈泰朝の重臣に確認すると、一旦息を整え、右手に持ったさいを振り上げた。采とは采配のこと。軍配と同じく軍勢の指揮をするためのもので、見た目は神主の持つ御幣ごへいに近い。元康は頭上に上げた采を素早く前に振り下ろしながら言った。

「出陣」

 静かな声だ。出陣、出陣、出陣、と、ささやくような声が続き、やがて先鋒の石川家成いえなり隊が動き出した。彼は石川数正の叔父にあたる人物だが、年齢は数正の一つ下だった。このとき二十六歳。

 家成、そして攻撃軍の正兵が動き出したとき、元康の指揮によって小荷駄隊も動き出した。

 義元本隊の兵糧を運ぶ小荷駄隊は、警固する遊軍を交互に挟み込んだ隊形で大高道を進む。実際には遊軍が小荷駄隊を囲んでいるような隊形だ。

 先行する遊軍は後に親吉と名乗る平岩七之助などを侍大将に約二百五十。その後に荷駄隊が続き、また遊軍約二百となる。遊軍には後の三方ヶ原の敗戦に置いて殿しんがりとなり、壮烈な戦死を遂げる鳥居忠弘などがいる。そしてまた荷駄隊、遊軍が続く。遊軍の数は約二百。この遊軍には小荷駄隊主将の酒井正親まさちかがいる。幼い時からの元康にずっと付き従い、駿府では最年長の従者だった。

 さらに小荷駄隊が続き、殿の遊軍約百五十がこれを守る。ここには元康の小姓を勤めていた鍋之介が、元服して本多平八郎忠勝と名を変え、そこにいた。忠勝はこのとき初陣だった。

 攻撃軍が丸根砦の麓に人の壁を作り、その後ろの道を小荷駄隊が進む。大高城までの距離は一㎞強。大高道に沿って歩く速度で進む。しかし殿の遊軍が丸根砦を後にしても、砦から人が飛び出すことはなかった。

(もしかして、籠城か)

 丸根砦を見つめる元康がそう思うほどに動きがない。息をひそめるように静かだ。

 小荷駄隊の大きな音が遠くになると、物見の一人が元康の前に姿を現した。

「申し上げます。小荷駄隊は道の半ばをこえましたが、鷲津砦からも兵が出て来る様子はありません」

 丸根砦を越えても大高城までの道には鷲津砦の脅威があった。しかしこの砦も丸根と同じく静観を続けているという。

(これは、時を費やすか)

 攻略自体はどちらもさほど難しい砦ではない。大高城を見張るための砦であり、守り自体は堅いとはいえない。しかし殻を閉ざした二枚貝のように織田の兵が動かずにいたら、かなり手間が掛かるだろうと元康は思った。

 しかし、元康はすぐにそれが間違いであることを知る。


 兵糧隊が出発するのと同時に攻撃隊は丸根砦の南に兵を展開した。先鋒の石川家成隊は丸根山の中腹まで進み、先頭に矢や火縄銃の楯となる竹束を並べていた。正兵、遊兵は丸根山の麓に兵を配置する。正兵は形原かたのはら松平家と呼ばれる松平家広隊、遊兵は同じく能見のうみ松平重吉しげとし隊。共に元康を宗家とした松平の分家で、どちらも老齢といってよい年齢だった。

 攻撃隊は竹束を並べ終えると砦に向けて火矢を放った。攻撃や挑発というよりも相手の出方をうかがうという意味合いがあった。

「まだよ、待て、待て」

 丸根砦の佐久間盛重は兵を動かすことをせず、冷静に火矢の始末を命じた。火矢の近くにいた何人かの兵が消火をし、あとはじっと動かない。

 夜の闇は薄れかけ、山の中にある砦でも人の動きが分かるくらいの明るさになっている。

「これはいよいよ」

 籠城か、と元康を含む誰もが思ったその刹那、

「かかれー!」

 地の底から響くような低く大きな声が轟いた。

 瞬間、攻撃軍に矢の雨が降り注ぎ、鉄炮の轟音が鳴り響いた。丸根砦を見ると門が開こうとしている。

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