第102話 丸根砦、深更

 真夜中の出陣時、その報告を石川数正から受けた時、元康はうろたえた。

「うまく伝わっていないのではないか」

 周りを意識した小声で元康が聞くと、

「いえ、間違いなく本人に伝えたそうです」

 小声で数正が答えた。数正自身が使者から直接聞いたという。

 元康らは今川軍の情報を信長に流していた。もちろん信長に何らかの行動を起こさせるためだった。しかし、清須から入ってくる密使からの情報に元康は心をかき乱した。信長はろくに評定もせず、数刻前は今川本軍が沓掛城に来ていることを知っていながら、家臣たちを解散させたという。

(よかったのか、これで)

 元康は左手で手綱を持ちながら、右手の親指をひたすら噛んでいる。このとき彼は無意識に爪を噛んでいるのだが、手にはゆがけという具足用の手袋をつけているため、指を噛んでいるように見えていた。イライラしたときの彼の癖で、周りの側近たちは皆それを知っている。いつもなら誰かが声をかけて止めるのだが、戦場へ向かおうとするこの時は、誰も元康の癖を止めようとはしなかった。

「殿、物見の者どもが戻ってきました」

 側近の一人である酒井忠次が馬を近づけて声を掛けてきた。

「そうか」

 元康の返事で物見の者が呼ばれ、馬上の元康の前に片膝を付けた。

「申し上げます。丸根砦の者たちは深夜のこの時刻においても意気盛ん、砦の周りを篝火で囲み、厳重に見張りを続けております」

「ほう」

 ちょっと意外だな、と元康は思った。丸根砦の兵たちが警戒を怠らないのは分かる。しかし意気盛んだとは思わなかった。

 信長からの指示は何もなかったはずだ。丸根や鷲津の砦は相当戸惑っているのではないかと元康は思っていた。しかし丸根砦の主将佐久間大学(盛重)は駿府にいても名を聞いたことがある人物だ。

(やはりひとかどの漢なのだろう)

 元康はそう思った。


 そのころ、丸根。実は半分自棄やけのような高揚感に包まれている。

 佐久間盛重はずっと信長の命令を待っていた。しかし、なにも来ない。清須に派遣しておいた兵たちが戻ってくる度に評定の様子を聞こうとしたが、世間話ばかりが延々と続いているという。

(どういうことだ)

 佐久間盛重以下諸将たちは、訳も分からずジリジリとした時間を過ごしていた。その間にも沓懸から大高道周辺に配置しておいた物見の者から、今川の兵が続々とこちらに近づいてきているという報が飛び込んできた。

(我等に死ねと、いうことか)

 そう考えたとき、盛重は急に笑い出したいような衝動を覚えた。

(勝手にやっていいのだろう。ならば儂なりの死に花を咲かせる)

 盛重は一同を大広間に集めた。入りきれない兵たちは庭先にいる。

 全てを合わせ、兵数は約四百。

 盛重が広間に入ると、開口一番こう言った。

「このままでは犬死だと思う者がいたら、遠慮はいらぬ。ここを去れ」

 兵たちは皆無言。目だけが盛重に集中した。盛重は微かな笑みをもってその様子を見ている。

「皆も知っておるようにこの付城は守りのための砦ではない。しかも我らはその数四百。対する敵は一千をくだらないだろう。死ぬのは儂一人で十分じゃ」

「殿!」

 家臣の一人が思わず声を上げた。侍大将の服部玄蕃という。声はややうわずっている。

「無慈悲です。我らは殿に付いて参ります」

 この一言で、我も、自分も、と所々から声が上がった。

 芝居じみているというよりも、催眠状態に近いかもしれない。

 佐久間盛重はその声一つ一つに笑顔で頷きながら、

「されば皆、儂とともに死んでくれるか」

 おー、という雄叫びのような声が呼応した。

 所々で興奮した口調や叫びのような声があがる。盛重はその喧騒がやや静まるまで待ち、口を開いた。

「お屋形様は我等にいい死に場所を与えてくれた。皆知っているように敵は松平殿である。幼き頃しか知らぬがいい若武者だと聞く。しかも兵は三河の衆である」

 三河の兵は強い、というのが専らの評判だった。何よりも、しぶとい。戦いに腰が据わっている。

「敵として、やり甲斐があるではないか。そうは思わぬか」

 盛重の迫力が皆を静かにさせていた。誰もが盛重の次の言葉を待っている。

 敵が兵糧を運ぼうとしていることは既に知っていた。物見の注進はほぼその全容も捉えていた。しかし、それはもはや関係ない、と盛重は思っている。清須の殿が何を考えているのかは分からないが、自分たちが捨て石になっていることはなんとなく想像がついていた。

「この戦、軍略はいらぬ。とにかく篝火を焚け。敵が来たら遠慮はいらぬ。一人でも多く討て。首などいらぬ。功は儂が見ておる。いいか者ども」

 盛重は腹の底から湧き上がるような大声で、

「儂と一緒に戦を楽しもうではないか」

「おおー!」

 この場にいる全てが声を上げた。右手を上げ、飛び跳ねる者もいる。盛重は籠城、いや時間稼ぎをする気はなかった。だからこれ以上鷲津と連絡を取り合おうとも思わなかった。それが必要なら信長はきっとそう命じただろう。

(やはり殿は我らに『死ね』と命じておられるのだ)

 盛重は兵たちを鼓舞したことで、さらにその思いを強くした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る