第101話 夜半、知恵の鏡
多分義元はあせってはいない。じっくりと尾張を切り取ろうとしているのだろう、と信長は予想している。
「殿、敵は目前まで来ております。できますれば我ら一同に殿のご存念をお聞かせ願わしゅう存じます」
筆頭家老の林秀貞が絞るような声を出した。疲れきった顔の家臣たちが一様に信長に目を向ける。
信長はニヤリと笑い、
「まあよい、このあとゆっくりと考える。各々戦支度だけは怠るな」
言うと、腕を回して両肩をほぐしながら、
「ときに佐渡、
佐渡守の官位を称している林秀貞に言った。市は信長の妹で、このとき十四歳だった。母と共に末森城で暮らしていたが、その美貌は清須城下にも響き渡り、中には嫁ぎ先の賭けまでが行われているということだった。
「いえ、……存じませぬ」
林秀貞は絶句した。なんなのだ、と思った。
信長は構わず話を続ける。たわいもない雑談ばかりだった。しかしどこでそんな話を仕入れたのか、信長は清須城下のちょっとした事件や噂を非常によく知っていた。とまどいながらも家臣たちは信長の話に対応する。
評定、いや雑談は意外と長く続いた。
「夜も深まった。寝る。明日は早い。皆帰れ」
信長はそう言うと、一人立ち上がり、さっと評定の場から姿を消した。後ろに控えていた小姓たちが突然のことに驚き、どたどたと足音を立てながら信長の行った方へと追いかけていく。
誰しも平伏する余裕すら与えられなかった。信長の出ていく様子を見ていただけの家臣たちは、皆しぶしぶと立ち上がった。結局、何も決まっていない。
(とにかく、出陣の用意だけは整えておこう)
家臣の誰もがそう思った。今川に寝返ろう、とは誰も思わない。今更遅いということを皆知っていた。
「この期に及んでは、知恵の鏡も曇るということか」
城を出たとき、家臣の誰かが呟くように言った。これまで主君織田信長は様々な危機を己の才覚だけで乗り越えてきた。時には家臣の誰もが驚くような行動を取ることもあったが、そのどれもが何らかの結果を出していた。
いつしか家臣は誰もが信長の知恵に期待していた。しかし今回は、まるで何もしようとしない。いや、何も思い浮かばないのかもしれない。
期待は見事に裏切られた。
家臣たちにすればそういう虚しさがある。
この呟きを聞いた家臣の一人に太田又介という男がいた。彼もその言葉に共感し、強烈な記憶として残った。後に信長の伝記をまとめるときに、又介はこの言葉を記録として書きとどめた。
深夜、今川先陣の朝比奈泰朝は全軍を参集し、それぞれの攻撃場所へと向かった。
先を行くのは井伊直盛を主将とする西遠江勢で約二千、鷲津砦を攻略する。後続は松平元康の約一千を主力とした三河勢、丸根砦を担当する。その後ろを後詰としての朝比奈隊が進んでいく。
月明かりの中、松平元康は馬の背に揺られながら、迷いが頭の中を駆け巡っていた。
大高城の兵糧入れを砦攻略の前に片付けようと言ったのは朝比奈泰朝だった。
兵糧入れは夜の明けぬ間に行い、その後元康本隊と兵糧入れの隊との二方向で丸根砦を攻めたい。もし砦の兵が荷駄を襲いに来たとしても、荷駄隊には守りの兵を多く配しこれに対抗する。また本隊も兵が出た隙に丸根、鷲津の両砦を攻撃する。いわゆる陽動作戦だ。寧ろ敵が荷駄隊を襲うよう兵糧入れはやや速度を落として行軍させたい、と泰朝は言った。この方が砦の中に籠られるよりも短時間で攻略できる、ということだ。
朝比奈泰朝の言葉に元康も井伊直盛も反論しなかった。朝比奈本家の当主であり先陣の大将である泰朝に意見など言えるわけがない。そんなにうまくいくか、という思いが元康にはあったが、仕方がない。今は『やるだけだ』と思っている。むしろ悩みは別にあった。
(本当に、織田に通じてよかったのだろうか)
昨年の冬頃から今川の情報を流したのは
東三河の騒乱もある程度収まり、元康自身も今川義元の姪御を妻とし、今川の血を宿す嫡子もできた。そして舅の関口親永と重臣朝比奈親徳の後添えで松平領である西三河の経営に着手することになった。すべては今川義元の意志によるものだ。
このままだと松平は今川に隷属するしかなくなる。そんな真綿で首を絞められるような圧迫感を元康は感じていた。いや、むしろ元康よりも彼の家臣たちの方が恐怖に近い感情をもっていた。
そのため、織田に情報を送るのは、むしろ元康よりも彼の側近たちの方が積極的だった。
早い時期から側近たちは織田と連絡を取り合い、元康にはほとんど知らせずにいた。もちろん何かあった時に元康の命を守るためという理由のためだ。(そんな甘いものか、と元康は思っていたが)
今川をこれ以上強力にさせない。できれば今回の戦いで尾張の織田家が決定的なダメージを受けることがないよう手を打っておきたい。織田信長という人物が実際のところどのくらい優れているかは分からないが、これまでの
(織田の大将はどういうつもりなのだ)
信長は何の指示も行動もしていないという。
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