第100話 清須城、評定の間
「は、そのことについて三浦左馬助より言上いたします」
親徳も義元の韜晦癖はよく知っている。別に驚いたり不審に思ったりすることなく三浦義就に目を向けた。
「三浦殿」
「はっ、朝比奈殿のご説明どおり服部左京進と河内勢は鳴海城周辺の砦を攻める際に船団を熱田に結集。明日の大高城攻撃により織田勢が加勢に出た時は我が方と共に挟み撃ちに、動かぬ場合は熱田と周辺海上の封鎖をするよう手筈しております。舟は千艘ばかりになると聞いております」
三浦義就は胡坐の姿勢で両手を床に着けながら答えた。その言葉で朝比奈親徳は顔を義元に向け、小さく頷く。
(
義元は満足げに頷き返しながら頭の中で言葉を浮かべた。達磨大師の言葉として伝えられる禅語だった。
結果とはそれまでの行いによって自然に得られるもので、それを求め利益のみを優先したりすることは悲しいことだ。正しい目的に向かって精一杯やれば後は果実が熟すように結実する、という意味とされる。
義元としては、やることはやった。織田の青二才がどのような動きを取るかは分からないが、どうあがこうと対応は出来ている。
(あとは果実が熟すように)
そう思ったとき不意に思い出した。
出陣の時に母寿桂尼が言った『熟した蜜柑』とは、以前に自分自身が母に言った言葉であったことを。
(そう、一つの蜜柑さえ傷つければ、おのずとすべてが腐るという事よ)
「よし」
義元は一人呟くと、評定を終えるよう親徳に目配せをした。
同じ頃、清須。
信長はさすがに評定の間にいた。しかし家臣らが大声で議論しているのを上座で暇そうに聞いている。左ひじで脇息にもたれながら右手で鼻をほじくり、出たものをピンと飛ばすと、家臣たちの何人かが信長に目を向けた。
何も聞いていない、と思ったようだ。
この日の夕刻、丸根の付城を守る佐久間盛重と鷲津の付城の織田秀敏から使者がやってきた。
「沓懸城に到着した今川軍は明日十九日の夜明け頃に大高城へ兵糧を入れ、同時に丸根、鷲津の両付城を攻撃するとのことです」
「ほう」
使者の言葉に信長が声をあげたのは引っかかりを感じたことによる。大高城に兵糧を入れるなら付城を落とした後の方が確実だろう。
今川は大高城を囲む付城を三河、遠江の兵で攻略し、その後体制を整え直して鳴海城の付城を取り除く。このことは既に情報を得ていた。
ということは、少なくとも大高城周りの付城を一気に短時間で攻略しようとするはずだ。では何故同時に兵糧を入れようとするのか。
と考えたが、瞬時で大事ではないと判断し、信長は言った。
「よい、続けよ」
「はい、今川勢は潮の満ち引きを考え、清須からの加勢が来ないうちに付城を攻め落とす算段とのことです」
(やはり、な)
と信長は思う。
使者が潮の満ち引きと言ったのはこういう理由がある。熱田から大高城までは鳴海潟と呼ばれる干潟を通るルートが最短となる。南南東に真っ直ぐ下るというイメージだ。しかしこの道を通れるのは干潮時だけで、潮が満ちてくると通れなくなり、遠回りをせざるを得なくなる。
使者の言う潮の満ち引きを考えてとはそういうことで、今川軍としては相当な時間が稼げるというわけだ。
この年五月十九日は夏至にあたる。日の出は午前四時半を少し過ぎた時分になり、満潮は午前八時ごろだった。
付城攻撃の急報が清須に届き、すぐに助けに駆けつけると、救援の兵が鳴海潟に着くときは、丁度潮が満ちていく最中となるだろう。今川軍は、これだけのことを考えて戦闘準備をしているということだ。
評定の間に集まっていた家臣たちはその報告に動揺した。しかし、信長は使者に何の指示も与えずに付城へ帰らせた。
織田の家臣たちはこれまで何日も評定の間に詰めていたため、ほとんど議論も尽きていたのだが、この注進がきっかけとなり再び激論を交わし始めた。といっても信長を中心とした評定という形ではなく、それぞれが手近の者と言い争いをする喧騒の場と化していた。そんな中、小姓に扇子で扇がれている信長は、家臣たちのそんな様子を眺めているだけだった。
その後も丸根、鷲津からは続報と指示を乞うための使者が何度か訪れたが、信長は何の言葉も告げることはなかった。最初は喧々諤々と議論をしていた家臣たちも、そんな信長の本意が分からず、一人、二人と口を閉じ、いつしか評定の間には不穏な空気だけが漂っていた。
「城下はどうか」
やがて信長は重臣の一人である村井貞勝に目を向けた。貞勝は信長に身を向けると、淡々と答えた。
「清須城下においても今川軍が尾張沓懸に進軍していることはみな承知しているようです。また今川軍は鳴海大高を取ったあと、この清須をも囲むだろうという噂が出ております。今川の
(だろうな)
と信長は思った。信長の見立てでは今川軍が清須まで攻め込んでくる可能性は低い。密偵の報告や時折来る松平からの情報もそのことを示唆していた。
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