第85話 信長、自嘲する

「伝左衛門、茶を持て。休む」

 響くような大声、側にいた市橋伝左衛門は「はっ」とすぐに書院の方へ駆け出した。

 信長はそれを見ると大股で歩き出しながら、

「今宵は踊り明かそうぞ。続けよ続けよ」

 両手を広げ、笑顔を振りまく。それを合図に笛が鳴り、鉦や太鼓の音が続く。群集はまた踊り始めた。

(おかしい。お屋形様は小六らが来ればすぐに報告するようおっしゃられたはずなのに)

 生駒八右衛門、群衆が踊りだしても平伏したまま動けずにいた。


「殿はご機嫌がすこぶるお悪い。何があっても辛抱ぞ」

 二人の元に戻った八右衛門は、真っ青な顔で言った。

「………」

 小六と将右衛門は前を行く八右衛門に従う。二人が連れて行かれたのは書院の前にある庭だった。

 信長、踊りの衣装を腰からはだけた格好であぐらをかき、近習に手拭いで体を拭かせていた。庭先の三人を見るといきなり大音声を出した。

「無粋な奴ども、この夜中に何用か」

 眼光鋭く三人を見据えた。三人は慌ただしく平伏し、蜂須賀小六が口を開いた。

「非礼の段、平にお許しくださいませ。我ら野にあって格別のご恩顧を賜る者、御家の危急とあってはご不興も省みず駆けつけましたる次第」

 小六の声は幾分うわずっている。信長の迫力に気圧けおされていることは自らも感じていた。

――しかし、

 と小六は腹に力を入れ、さらに言上する。

「三州一円は既に今川治部大輔じぶのたいふに加担。国を挙げて合戦の準備に余念なく、日ならずして治部大輔が西上するは間違いのないところ。海道筋は兵糧を至る所に野積みし、馬の飼料なども高々と積み上げております。また国境は警固厳しく、要所要所を厳重に固めております」

 信長は黙って聞いている。もしこの場に藤吉郎がいれば、

――お屋形様はお怒りではないな。

 と鋭く察知したことだろう。しかし、平伏している三人にはそれだけの余裕はなかった。

 小六は続ける。

「加えて、岡崎表には今川の軍勢多数詰め寄せ、府中から掛川、浜松の海道筋も同様でございます。もし治部大輔が駿府より出陣いたせば、数日をもって尾張に乱入いたすは必定。鳴海、大高を囲みし諸城にはしかるべく人数を遣わされ、さらに堅固に固めるのが肝要かと思われます」

 信長の目が光る。

(やはり海道筋の一筋か。二派に分かれることはない)

 これは簗田たちの諜報とも合致している。しかし信長は黙って聞いていた。

 彼は今川の密偵が踊り張行ちょうぎょうに混ざってこの話を聞いているだろうことを考えていた。さらにいえば、近習や小姓たちにも自分の考えを表に出すのは危険だと考えている。

 反応のない信長を見ながら小六は尚も続ける。

「弓矢の家の名誉にかけても、このまま今川の軍勢に通過させることは出来ませぬ。日頃の御恩に報いるため、不肖ながら直ちに川並の者を糾合いたす所存。その数は二千を下りますまい。早々にご用命くださりませ」

 そう言って再び頭を下げた。小六にすれば尋常な言葉ではなかった。実際、この状況で織田が勝つとは思えない。いつもなら君子危うきに近寄らず、だったろう。

 しかし今度の場合、今川が川並衆を存続させるとはとても思えなかった。いわば野武士の集団だ。十中八九、川並衆は目の敵にされることだろう。織田が敗れれば我等も滅ぼされることになる。小六はそういう危機感を抱いていた。

(少なくとも、今のままではいられまい)

 このとき信長は近習に扇であおがれていたが、「よい」と近習に手で制し、自ら庭の前にある廊下に出ると、無造作に腰掛けた。

「今川の総勢は三万とも四万とも聞く。我が方は五千ばかり。たかだかこれだけの人数、国境だ野戦だと分散すれば、百に一つの勝算もない。その方ら、戦を飯の種にする者とも思えぬことを言うではないか」

 右足をあぐらのように組み、左足は廊下の下でぶらぶらさせている。書院にある灯火の影となり、右手で頬杖をついた信長の表情はよく分からない。

「籠城にしても、大軍を迎え撃って三日や五日しのごうと、ちょっとばかしの加勢が来ようと、そう長くは支えられるもんじゃない。しかも清須は見渡す限りの平地よ」

(何ということを、これでは戦う前から負けと言っているようなものではないか)

 平伏しながら小六は訝しんだ。

 暑くもないのに汗が背中を伝っていくのを感じる。

 しかし信長は、さらに絶望的なことを言った。

「この期におよんで何の手立てがあるか。所詮、労あって益なしとはこのことよ」

 信長の甲高い声はここで途切れ、自嘲するような笑い声がこれに続いた。

 祭りの喧騒は続いている。しかし、小六たちにその音は聞こえていなかった。

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