第83話 信長、腹をくくる

 確かに別働隊への対策として、三河の山間を通って尾張の東側を攻撃する拠点、品野城は焼き尽くした。だが、だからといって二派、三派の軍で来るという可能性はまだ否定できない。

 例えば海上がそうだ。昨年十月に今川が向山など三つの付城を攻略したとき、水軍を使って海上から攻撃をしてきた。

 しかし今度は義元自ら軍を率いて来るとされている。そうなると間違いなく敵は万を超す大部隊だ。

 地域地域で徴収した兵を参集させ、拡大していくという。特に三河は多数の兵を求められているそうだ。

(つまり、奴らは陸路で来る)

 密偵などの探索、そして松平からも情報が届いている。かなり信憑性が高いと信長は見ている。

――まだなすべきことは残ってはいないか。

 最近の信長の考えはいつもここに行きついている。彼の策は着々と動いている。しかし最後の一手が決まるまで油断は出来ない。

「どういたしました」

 心配そうな吉乃きつのの声が聞こえた。そのことで自分が目を開け、天井の一点をじっと見つめていることに気がついた。

 余程怖い顔をしていたのだろう。いや、逆に目に光が感じられなかったのかもしれない。

「いや」

 信長はムクリと起き上がり、吉乃に体を向けて喋り出した。

「存じておるか。この前、御上おかみがやっと即位できたことを」

 一月二十七日に行われた正親町おおぎまち天皇の即位の礼のことを言っている。践祚せんそ(天皇の位を受け継ぐこと)から二年三ヶ月という月日が経っていた。西国の毛利などからの献金で、ようやく形にすることが出来たという。

「いえ」

 吉乃は真顔になって答えた。信長が突然脈絡のないことを言うのには慣れている。

 それまでずっと眠ったようにしながら何かを考え続けていたことを吉乃は知っていた。なにか思うところがあるのだろう、としか吉乃には分からない。

 信長は吉乃の顔を見つめながら、

「桃の節句には今川の大狸が桃華会とうかえで奉納される稚児舞の衣裳を浅間せんげんの宮に寄進したそうだ。たいした余裕だとは思わぬか」

「はあ」

 信長の笑顔に吉乃は戸惑いながら相槌を打つ。

(やっぱり、今川のことか)

 今川侵攻の噂は吉乃の耳にも届いている。多分そのことを考えているのだろうとは思っていた。しかし吉乃はその思いを顔に出さない。変に口出しをすると目の前の男は突然不機嫌になることを知っているからだ。黙って信長の言うことを聞いていた。

 信長は自分でも饒舌になってきていることに気付いたのだろう。混乱した頭のままで喋るということもこれまでの信長にはなかったことだ。

「……」

 このとき信長は、義元周辺の動きをどんな細かな事でも知ることが出来るよう、様々な情報網を張り巡らせていた。

 義元の依頼を受けた四辻季遠や中御門宣将が義元と嫡男氏真の任官運動のために京で活動していることは、その動きの詳細も含めて把握している。

 小河、刈屋の水野が掛川城の朝比奈泰朝と連絡を取り合っているという情報も既に様々なルートから手に入れていた。

 何でも刈屋の水野信近が泰朝に接近を図る時、すぐに家中から情報が漏れたという。

(やはり奴らは信用できんな)

 簗田政綱からそのことを聞いたとき、信長は苦い物を噛み潰したような気分になった。

 しかし、事は動いている。今さら戻すことはできないし、変えることもできない。

「つまり、世の中はなるようになる。そういうことよ」

 信長、自分でも何を言おうとしているのかよく分かっていなかったが、最後の言葉で腑に落ちた。

(そうよ、出来ることをしっかりとやれば後はなるようになる)

 思うと随分と楽になった。信長は突然立ち上がって吉乃の正面に体を向け、両手を広げると吉乃の頭を抱きしめた。

「どうなされました」

 いきなり信長の胸元に顔をうずめられた吉乃は小さな声を上げた。

「いや、な」

 部屋の隅にいる吉乃の侍女たちは見て見ぬふりをしている。

 信長はただ吉乃の体温を感じていた。


 晴れてはいたが月はない。星明りの中、所々に篝火があった。

 その夜、信長は生駒屋敷周辺の住民を誰彼となく呼びかけ、踊り興行を開いていた。 

 いきなりの触れではあったが、信長ならばよくあること。たちまち何百人もの人々が生駒屋敷に集まった。

 広庭の中央には井桁に高く積んだ薪が勢いよく燃えている。この当時の庶民にとって、踊りは最大といっていい娯楽だった。その激しさや高揚感は、現在のライブやクラブ以上のものだったと思われる。

 信長は天女を装った女物の白い衣を纏い、炎に包まれた井桁の周りを回りながらひょうきんに踊っている。しかしその動作の一つ一つが流麗で一幅の絵画を思わせるほどに極まっている。

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