第82話 信長の目算

 信元は詫び状を使者に持たせただけで小河城から一歩も出ようとしなかった。織田家家臣の簗田政綱という男が何度か小河城を訪れ、清須城に挨拶に行くよう促してはいたが、こちらの動向をそれとなく見張られているように感じたという。

 兄の今川家への鞍替えを信近もすぐに同意した。だが小河城には簗田政綱をはじめ織田の手の者が度々出入りしている。この件はくれぐれも内密に、ということだった。

「どう思う」

 義元が聞くと、

「あり得ぬ話ではない、とは思いましたな」

 ややくだけた感じで親徳が答える。

「よな」

 義元が言い、しばらくの沈黙。

 一月中頃から今まで時間がかかっているのは、事の真偽を確かめるために親徳らが内偵をしていたという事だろう。その上での報告ということか。

「任せてみるか」

 義元は言った。

「御意」

 親徳はニッと笑って答えた。

 水野の要望を取次した朝比奈泰朝にこれからも連絡役として任せようという意味だ。どうやら親徳もそれを考えていたらしい。

 実は義元の方針として、織田の家臣や周辺の領主などが内通や誼を通じようとしてきても、これを受け付けないということを家内に通達していた。今回は大軍で遠征するためそのような策は必要なく、尾張征服後の領地等恩賞を考えても利はないと考えた。また内通者が実は織田信長の廻し者ということもあり得る。こうなると情報漏洩だけでなく、どんな工作をされるか分からない。

 しかし、水野はやや違う。

 織田方についていた小河の水野は、今回最初の戦となる鳴海、大高、そして沓掛の城よりも東側にある。つまり今川を後方から攪乱する可能性がある。挟み撃ちは兵数的に難しいと思えるが、後陣にもそれなりの備えが必要となるだろう。

 先に水野を叩く手もあるが、当然ある程度の時間が必要だし、兵などの損耗も考えねばならない。

 ならば、水野は手の内に置いた方が良いといえそうだ。

 また、松平元康の実母は小河城で生まれ、水野信元、信近は元康の伯父にあたるという話も思い出していた。元康の首を絞めるときなどの種にもなりそうだ。

 朝比奈親徳が退室した後、義元は庵原元政を呼んだ。下座で控える元政を手招きして近寄らせ、小さな声で命じた。

「三河の小河、刈屋周りにいる間者どもにほんの些細なことでもよい。何か変わった動きがなかったかを問い合わせよ。ああ、清須もな。あと、人を増やしてもよいからさらに厳重に見張るよう伝えよ」

 

 

 三月下旬(現代の四月下旬あたり)、桜もすでに散り、晴れた日は初夏のような暖かさを身に感じる頃、織田信長は清須城内で吉乃きつのの膝枕に身を任せていた。

 惰眠をむさぼるように目を瞑ってはいたが、頭の中は冷たく冴え渡っている。

 信長は頭の中で何度も繰り返していたこれまでの状況整理をまた始めていた。

 品野城は叩き潰した。

 鳴海・大高を囲む五つの付城は、その機能を充分に果たしている。正光寺しょうこうじ向山むかいやま氷上ひかみの付城は今川の手によって陥落したが、信長は改めて付城を造るつもりはなかった。

――状況に合わせた手は打ったつもりだ。

 しかし、尾張全体を見ればまだまだ油断はできない。

 尾張の南東にあたる鳴海・大高方面はもちろん、清須城のすぐ西にある河内(現在の愛知県海部あま郡、弥富市辺り)一帯は今川の勢力下といっていい。

 天文二十四年(一五五五・この年十月より弘治元年)八月、今川義元は当時織田方だった蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)を攻撃した。雪斎の死の直前であり、武田晴信(後の信玄)と長尾景虎(後の上杉謙信)が川中島で睨み合いを続けている時だったため、義元と主力軍は自ら出陣せず、三河の松平勢や一向宗の僧侶であり地元の土豪でもあった服部友貞を中心に攻めさせた。

 船団を使ってのこの戦いで蟹江城は落ち、義元は服部友貞に領土を任せた。友貞は鯏浦うぐいうら城(愛知県弥富やとみ市)を根城とし、今も河内周辺に勢力を保っている。

 そして、北は美濃の斉藤。

 今川義元が遠交近攻策として斎藤と手を組むことは、これまでの今川の動きを見ている限り考えにくいが、あり得ないとはいえない。こうなると逃げ場がない。しかし信長は逃げることなどこれっぽっちも考えてはいなかった。

 今川勢が尾張を侵攻するとき、もし信長が清須城を出ても、鯏浦の服部が清須を攻めに来ることはないだろうと見ている。

 河内という海抜が低い地を地盤とする服部党は、舟での戦を得意としている。主戦場を鳴海・大高と考えるなら、まず間違いなく水軍として使うだろう。圧倒的な機動力となる。

 では今川本隊はどこから来るか。

 沓懸城から鎌倉往還もしくは東海道を通って鳴海もしくは大高城に向かうだろう。大軍である限り、地理上そのルートしか取る道がない。駿府から三河の端までは北に峻険な山々、南は海が延々と続くためだ。

 しかし、一筋だけで来るのか。

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