第79話 今川家の初評定 年貢と諸役賦課
意表を突くという意では『奇襲』という言葉がある。
古来、日本での奇襲といえば源平合戦における源義経の『
戦国時代の話では北条氏康の『
また、『厳島合戦』では少数の毛利元就勢が敵方の大将
これらの戦い、共通することは、敵方にとって『想定外』であったということだろう。
例えば鵯越では思いもしない場所からの攻撃であり、川越夜戦は夜中という時間だった。そして厳島合戦は、大軍を小さな島へ誘い込み、背後から攻撃をかけて勝利した。
どれも攻撃側からいえば『意表を突いた』作戦だったといえる。
――混乱を呼び込むことで勝利を導く。
信長は、このことを考えている。
ある程度のシミュレーションは既に出来ていた。昨年の春、吉乃と子どもたちとの戯れの中で思いついたものだ。
しかし、すべてをこちらでお膳立てするのは極めて難しく、不確定な要素がまだまだ多い。そしてどう考えても信長側から操作することが難しい事柄がある。
このあたり、彼は柔軟に対応していくしかあるまい、と考えている。一から十まで隙なく作り込むよりも、ある程度状況に任せた方が結果的に上手くいくのではないか。これまでの経験から信長はそう思っていた。
今川家における歌会始の翌日は評定だった。
既に十一日から氏真は駿河の起訴関連を始めていたが、今川家としての評定は新年最初となる。
この日は早朝から今川館に部将級以上といえる家臣たちが集まった。
年初の評定のため、普段は評定に出席しない家臣も評定場である大広間の中にいた。遠江
静かな時が続く。しわぶきの音だけが時折響き渡る。側近筆頭である庵原元政の声が氏真および義元の入場を告げた。居並ぶ重臣たちはそれを合図に一斉に平伏した。
上座側の引き戸が開き、氏真が先に、次に義元が中に入った。二人はそれぞれ畳の上に円座という座布団のような丸い敷物が敷かれている座に座る。
評定はまず昨年の米の取れ高と年貢の集計報告から始まった。報告するのは朝比奈親徳の嫡男
「では、昨年のそれぞれの取れ高をご報告いたします。まずは駿河から」
今川家は義元の父氏親の代から検地が行われていた。これは他の戦国大名に先駆けたものだともいわれ、今川家が先進的な政治形態をもっていたことを実証しているという。領内の田畑の把握も実際に測った数字によるものだった。
信置は家臣それぞれの領地における取れ高と年貢、そして一昨年との比較を細かく告げた。そして全ての領地を告げ終わると、ようやく全体のまとめに入った。
「昨年は空梅雨もあり不作ではありましたが、予測しておりました取れ高にはなんとか達することが出来申した」
信置の言うことは公的な場であるため、かなり丸まった表現になっている。実際には永禄になってからの二年間、『飢饉』といっていい状況がじわじわと全国的に襲いかかっていた。
原因は、長期的な天候不順だった。
この年永禄三年の二月三十日(旧暦はこのような日付が存在する)、北条氏は伊豆牧之郷(静岡県修善寺町)に年貢の半分を物納にする等の徳政五ヵ条を定めている。前年からの凶作に対応するためだった。
今川家自身、信置の言う予測数値は年度末に向けて下方修正されたものだ。
「本年におきましてはこの後御下知いただきます出兵を換算いたしましても、昨年並みには年貢を収納いたしたく存じております。また、尾張の領土が吸収拡張された際には、すぐに検地を行い、年貢徴収を図りたく存じます」
信置はそう言って言葉を締めた。尾張侵攻は既に既成の事実となっていたので、信置が領土拡張の話をしても誰一人声を立てなかった。
次に義元と氏真に一礼し、手元の書状を広げたのは瀬名氏俊だった。
瀬名氏は今川氏の遠戚にあたり、松平元康の義父である関口親永は彼の実弟にあたる。氏俊自身はこのとき実務の中心人物の一人であり、戦においても実績のある人物だった。
氏俊は今川領内の課役収入を報告した。具体的には家臣の私領や寺社、郷村に課していた物資や銭貨の収入だ。
彼は
数字の羅列はまだ続く。商業関連、職人からの租税収益、運搬関係の収入と、聞いているだけでは憶えきれない報告が果てしなく続いていく。
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