第77話 水野信元、口を開く
正月も幾日か過ぎた頃、水野信近が少数の家臣を引き連れて兄水野信元の小河城に入城した。
例年彼らの正月は
但し信近は今川義元に拝謁することはできない。寄親である朝比奈泰朝に新年の祝賀を言上し、酒宴の末席で彼方にいる今川義元の姿を目に留めるだけだった。
対して兄信元は信長に直に挨拶することができた。しかしこの年、信元は清須に伺候しなかった。
信近は重臣から噂としてそのことを聞いた。
理由はすぐ推測できた。向山砦の一件だろう。
兄信元はあの退却から小河城に籠り、一歩も外に出ていないらしい。もちろん清須には一度も足を向けていない。
新年の挨拶は兄弟が顔を合わせるいい名分といえる。三河と尾張の境界に領地をもつ家として、今川方と織田方に分かれた二人は、連絡を取り合うことにも気を遣う。今川と織田、双方に監視されていることが分かっているためだ。
信近と近臣は小河城の信元に挨拶し、夜は酒宴となった。酒宴は深夜まで続き、信近一行は小河城で一泊した。
深夜、信近は一人、信元の指定した部屋に入った。中には信元が一人いた。灯りは最低限しかなく、暗い。
「今川はこの夏に尾張侵攻をするようです。当方も出兵を内命されました」
兄の対面に座ると、信近はすぐに口を開いた。もちろん兄だけが聞こえる位の小声になっている。
多少は驚くか、と信近は予想していたが、薄闇に見る兄信元の顔色は変わっていないようだった。
というか、沈鬱な表情が固まったまま動かない。
「藤九郎」
しばらくの間があり、信元が呟くように言った。また少し間があり、
「儂は、今川に付こうと思う」
兄がそう言う可能性は考えなくもなかったが、実際に聞くと、言葉が出ない。信元もそれ以上は声を出さない。
いつもの兄なら、織田への不満を滔々と語り始めただろう。しかし、重い決断をした人間は、口数が減るものなのかもしれない。
(よほど悩まれたのだろう)
信近はそう思った。。
一月十三日、今川家では恒例の
今川家は
しかし年の初めに行われる歌会始は意味合いが違った。月次会は義元や氏真個人が開催するものだったが、歌会始は今川家当主が主催となる今川家の行事としての意味合いがあった。そのために一族や重臣たち、駿河に滞在している公家たちだけでなく、京などからわざわざやってくる公卿文人などがおり、毎年華やかな宴が催された。
当然ながら主催は当主である氏真で、今川館内にある氏真の邸宅が会場となった。
会は昼過ぎ、現在でいう午後二時ごろから始まる。
事前にお題が与えられ、それぞれが歌を書いた懐紙を持ち寄る。集められた懐紙は司会にあたる
それぞれの歌が終わると酒肴が出された。
このとき義元の横に近習頭の庵原元政が姿を現し、義元に耳打ちをした。
「なに、織田の小倅が」
義元が呟くような声を立てる。
「は、いかが取り計らいましょう」
「なに、せっかくの宴を中断することもない。終わった後で詮議する」
「は」
元政は軽く礼をすると何事もなかったように姿を消した。
義元はその後も始終笑顔でいた。酒宴は日暮れ後も続き、猿楽の演舞などもあったが、義元はもはや場の雰囲気を楽しむことが出来ない自分を感じていた。
年始以降しばらくは通常に内政を行っていた信長だが、突然重臣たちを集めた。
「これより出陣する」
居並ぶ重臣たちの前に姿を現したとき、信長はすでに甲冑姿であった。立ったままそう告げると当然の如く重臣たちは皆驚きの声を上げた。
「どこを攻めるのですか」
筆頭家老の林秀貞が聞いたが、信長は、
「東、城攻めである」
とのみ言った。
「火急の際の取り決めで出陣する。急げ」
そう言うと信長は座を離れ、そのまま馬上の人となった。従うは少数の小姓のみ。
信長のいない清須城は火事のような騒ぎとなった。重臣たちは部下に指示し、屋敷に帰って早急に支度を調える。留守居が決まっている者も城の警護に向けてあちらこちらと動き回っている。
信長は、リハーサルのつもりだった。
今川との戦いは、多分、鳴海・大高の周辺でまず起こる。そのとき出陣に手間取っていてはこちら側に不利になるばかりだ。思い立ったらすぐに行動を取れるという態勢が望ましい。まずは家臣たちがどのくらいの時間で集まることができるか、だ。
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