第76話 織田家の正月拝賀
無人斎道有という名で出家し、表面上は隠棲をしている信虎だが、時折京に上り、公家や幕府の要人などと親交を深めていた。京に屋敷を持ち、将軍義輝にも伺候しているという。
義元は常に信虎の周りに見張りをつけているが、信虎は今も大名に返り咲くという野望を胸に秘めているように思われる。
いずれにしても信虎は今も危険な男だ。まだ公にはしていないが最早公然の秘密ともいえる尾張侵攻は良いとしても、義元は上洛や旗揚げなどという言葉に反応し、つまらないことで
「ときに於菊殿が菊亭中納言様にお輿入れとの事、祝着至極に存じます」
義元が話を変えようと膝を正し、言いながら一礼すると、
「ほう、菊が……。そうですか。初めて知り申した」
信虎はさも驚いたように言った。
(そんな訳なかろう)
思いながらも義元は、
「なんでも昨年の終わり頃に甲斐をお出でになられたとか。そろそろ京に着く頃ではありますまいか」
「それはめでたい。しかしこれも婿殿のご助力があったゆえ、感謝いたしますぞ」
信虎がそう言ったのには訳がある。
菊亭大納言こと今出川
兄である信玄は信虎の子を甲斐で育てようとし、義元もそれに応えた。二人はたとえ女子であっても、信虎の身内を彼の手許に置いておきたくなかった。後々何が起こるか分からないという気持ちがあったからだ。また信玄にすれば、女子は後の婚姻策として利用できるという思いもあったのだろう。
信虎は手放すしかなかった。
彼としては立場上異議を唱えることが出来なかったし、幼き子が人質同然の自分の許にいるより、甲斐の方が安泰だろうという考えもあった。
「於菊殿はほんに目鼻立ちの可愛らしいお子でありましたな。それがしもこのご婚礼、心よりお祝いいたします」
「ありがたきお言葉。心より御礼申し上げます」
深々と頭を下げた信虎は、急に年をとったように見えた。底知れないほどの不気味さが消え、一人の人間がそこにいた。
(父親とはこういうものか)
義元は思わず隣の氏真に眼を向けた。
菊姫は一月九日に今出川晴季の元に嫁いでいる。
尾張織田家の正月は、今川家のそれに比べると質素といっていいものだった。三日も過ぎると信長へ伺候するものは少なくなり、家中は普段の日と同じような状態に戻る。
そんなときに生駒家長が現れた。型通りの新年のあいさつが終わると、家長は昨年十月に長女五徳が産まれたことの祝いを述べた。
生んだのは彼の妹である
家長は五徳に会うことを所望した。信長は吉乃の住む屋敷まで自ら気安く案内し、家長は吉乃とも挨拶を交わした。
「ときに、お耳汚しになるかもしれませぬが」
まだ首の座っていない五徳を溶けるような笑顔であやした後、家長は蜂須賀小六と前野将右衛門から聞いた三河の話しを信長に伝えた。
「で、草の者らは」
信長は聞いた。
「三河に戻っている頃と思われます」
家長の答えに信長は頷き、
「猿め、やりおる」
ひとり言のように言った。
「は?」
八右衛門が不思議そうな顔をしたが信長は答えない。
細作としての三河行きを蜂須賀小六に直接頼んだのは藤吉郎だった。何かの折に藤吉郎が蜂須賀小六と面識があるとの話をしたことがあり、これを覚えていた信長が藤吉郎に指示をした。
(あのときは世間話のように話していたが、何かの目論見があったのだろう)
信長はそう見ていたが、藤吉郎のそんな行動を不快とは思わない。寧ろ何の考えもなく無駄話を垂れ流しているだけの奴の方がよほど嫌いだ。
細作の報告を家長にさせるのも藤吉郎らしい。確かにそれは機密保持において適切な処置だといえた。
小六が直接清須へ来ることは、小六が有名人であり、普段清須へは足を運ばない人物であるだけに、目立つ行為だといえた。内容が漏れる危険性があるだけでなく、川並衆の頭領である小六が清須城内に入るだけでも、何かあるのではないかと周囲に思わせるところがある。
その点家臣である生駒家長ならまだ安全だ。
また、家長は正月参賀に清須を訪れたが、周囲に人がいるときはこのことを口にせず、近い距離で話が出来る吉乃の屋敷まで自然な流れで信長を誘導した。
そんな八右衛門の慎重さもきっと藤吉郎は計算に入れていたのだろう。
なによりも信長は、自分が報告することで手柄にしようとせず、よりよい方法を実行しようとする藤吉郎の手腕に好意をもった。
(猿にやらせたのは間違いではなかった)
信長はそう思った。
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