第74話 四方拝

 数時間後、今川家当主の氏真は、元日最初の行事である四方拝しほうはいを執り行っていた。

 四方拝は陰陽道に由来し、平安時代初期に宮中に取り入れられた。元日の夜明け前、天皇は東西南北の四方を拝し、天下太平、万民安寧、五穀豊穣を祈る。また、貴族や武士、庶民などはその年の豊作と無病息災を祈ったという。

 今川家の場合、一年の自家の繁栄と領地である駿遠三の豊作・豊漁・盛業、そして家臣、領民の安寧を祈願する。

 寅の刻(現在の暦では午前四時、しかし当時は当然ながら時計はなく、太陽の位置等によって時刻を決められていたため、真冬のこの時期はもっと遅い時間だったと思われる。明治以降の宮中では午前五時半に決められていることから、実際はこれに近い時刻だったのではないか)、束帯に身を包んだ氏真は庭に降り、むしろを敷いた道を通って座に向かう。

 外はまだ闇の中で、寒い。温暖な駿河とはいえ、現在でいえば二月七日、まだまだ真冬といえる時期だ。

 右手にしゃくという細長い板を持って歩く氏真の顔はすでにやや引きつっている。彼は八帖の屏風で囲まれた中にある座の中に入る

 座は三つある。最初は属星ぞくしょうを拝する座。属星とは北斗七星の中にある七つの星のことで、それぞれに干支が配されている。生まれ年によってその人の一生を支配していると考えられていた。

 氏真は最初の座に着くと中天のやや北西、北斗七星の方向を向いた。いぬ年生まれの氏真は自分の属星である『祿存星ろくぞんせい』を七回唱え、次に永禄三年申年の属星である『廉貞星れんていせい』を同じく七回唱えた。

 氏真は次に四方拝の呪文を唱える。


 賊寇之中ぞくこうしちゅう 過度我身かどがしん

 毒魔之中どくましちゅう 過度我身

 毒氣之中どくけしちゅう 過度我身

 毀厄之中きやくしちゅう 過度我身

 五急六害之中ごきゅうろくがいしちゅう 過度我身

 五兵六舌之中ごへいろくぜつしちゅう 過度我身

 厭魅咒咀之中えんみじゅそしちゅう 過度我身

 百病除癒ひゃくびょうじゅゆ 所欲随心しょよくずいしん 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 氏真の体は既に硬直し、口元が震えている。

 呪文を唱え終わった氏真は、二つ目の天地四方を拝する座に移った。北に向かって天を拝し、いぬい(北西)に向かって地を拝す。そして子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)と順に四方を拝する。

 最後は山陵を拝する座。山陵とは天皇や皇后のみささぎ、つまり墓のことであり、この場合は父母のことを指す。

 氏真はまず西、京の天皇を拝し、彼にとっては祖父にあたる九代氏親が眠る増善寺、北北西に向かって拝し、次に伯父の十代氏輝が眠る善得院に向けて、ほぼ体の位置を変えずに拝礼した。

 いつしか闇は薄れようとしている。空に藍色の光が覆い始め、灰色にたなびく雲が見える。まもなく日の出、元旦となる。

「寒かったであろう。五郎」

 屋敷内に戻った氏真に向けて、中で拝礼を見守っていた義元が声をかけた。

「はい、い、いえ」

 言って氏真はうつむいた。唇は紫色になっている。

「今日はこれからもやるべき事が多い。気を引き締めよ」

「はい」

「それと」

 義元は立ち止まり、後ろの氏真に顔を向け、

「先程の所作はしっかりと憶えておけ。いずれそなた一人の時がくる」

 何度この言葉を聞いただろう、氏真はその度にうんざりとする思いだった。今川の家督を譲った後の父君は、何かあるたびにこの言葉を加える。

 しかし、このときは何かが違った。何故か分からないが、妙に染み入るような気がした。

「は、はい」

 氏真は父の顔を見据えながら返事をする。

「頼むぞ、五郎」

 義元はそう言うと、ゆっくりと氏真に背を向け、歩き出した。

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