永禄三年

第73話 年越しの生駒屋敷

 永禄二年の大晦日から三年元日に変わる深夜、尾張稲木庄の小折こおり村にある生駒屋敷に二人の男が訪ねてきた。

 二人とも旅装で、ひどく汚れていた。しかし家の者は二人を見るとすぐ門を開け、旅塵を落とすための水桶を持ってきた。

 屋敷の家人が応対に出ると、二人は突然の訪問を詫び、そして一人が聞いた。

「お頭たちはこちらにござりますか」

「はい、待ちかねておられます」

 家人は客人二人を『お頭たち』の待つ一室へと案内する。

 生駒屋敷は東西三百七十m、南北五百四十m、周囲に堀を構えた広大な屋敷だった。生駒家長は信長の側近である馬廻衆の一人として仕えていたが、商人としての顔も持っていた。

 彼が商っていたのは灰(染料の原料に使った)と油、そして馬宿(馬による運送業)だった。武器も扱っていたらしい。

 屋敷には浪人、旅僧、行商人や旅芸人など、様々な人物が寄宿していた。八右衛門は諸国の様々な情報を得るために寝泊りを許していたのだが、むしろ彼自身のおおらかな性格がこのような人々を集めたのだろうと思える。

 青年期の信長も生駒屋敷へは何度も足を運んだ。元々は情報収集のためだったようだ。そして屋敷の中にいた吉乃きつのを見初めた。このとき吉乃は後家だった。美濃可児郡の土田どた弥平治という男に嫁いだが、夫が戦死したため、実家であるこの屋敷に戻っていた。

 土田弥平治は信長の母土田御前と同じ家系の男だった。母の血筋の男に嫁いでいた女性を信長は側室にしたことになる。

 信長は生後しばらくすると母と別れて暮らすことになり、母の愛情を知らずに育った。信長を後継者とするために、父信秀があえてそうした。

 信秀の死後、弟信勝との間に家督争いが起こり、信勝と共に末森城に住んでいた土田御前は自然に信勝側ということになった。後、信長は信勝を暗殺する。このときから、信長と彼の母との間には埋めようもない溝が決定的にできてしまった。

 穿った見方をすれば彼の母親への屈折した心が吉乃への愛情を深めた、とも受け取れる。

 いずれにしてもこの時点で、吉乃は信長との間に嫡男を含む二人の男児、そして永禄二年十月には女児を産んでいる。

「おう、ごたいげさま」

 旅装の二人が一室に入ると、ご苦労様という尾張のお国言葉が二人を迎えた。部屋の中には三人の男が輪になって座り、酒を飲みながら餅を食べている。声を上げたのは蜂須賀小六という大男で、痩せて見えるのは前野将右衛門、そしてもう一人は藤吉郎だった。

さぶかったろう」

 小六は続けて言いながら輪の中に入るよう手招きをしている。

 二人の男は頭を下げながら三人の輪の中に入った。すかさず藤吉郎が二人に杯を渡し、酌をした。

 二人は木曽川沿いの土豪が集まった川並衆の一員で、小六の依頼で三河へ行っていた。小六は川並衆の頭目で、将右衛門は小六の舎弟といえる存在だった。

 二人が率いる川並衆は、木曽川流域を中心とした船運業を本業としている。しかし裏では細作さいさく、つまり忍者のような仕事や雇われ兵士等、何でもした。

 彼らは金銭やなんらかの報酬でどんな主の元でも働く。しかしそれは別の言い方をすると『誰にも付かない』ということであり、もし仕事や依頼者が気に入らねば、どんなに報酬を積まれても動かない。

 永禄元年九月、信長は生駒屋敷にて小六たち川並衆十余名を接見した。生駒家長の斡旋だった。

 このとき信長は蜂須賀小六に尾張国内の関所を無償で通行できる権利を与えた。そして前野将右衛門には知行を与え、信長の家臣としたが、川並衆の頭領である小六は信長の下にはならなかった。

 将右衛門も一年と経たぬ間に同僚と喧嘩をし、信長から勘当を受けている。

 そんな縁もあり、小六は信長から仕事を受けた。

 その内容は、三河で風評を流すことだった。

 『今川冶部大輔じぶのたいふ(義元)は松平蔵人様を三河には戻さない』

 というのがそれだった。

 三河にいる松平の家臣たちにとって松平元康は、残された希望といってよかった。

 彼らは今川の支配下で一種奴隷のような生活を送っている。年貢のほとんどは今川に取られ、戦があると最前線に送られた。家臣たちがじっと耐えている理由はただひとつ、元康が主君として岡崎に戻ることを糧としていたのだった。

 つまり信長の指示したことは、松平の家臣たちに不安感をあおり、今川への不信感を募らせることにあった。

「いや本当に驚きましたんや」

 三河に滞在している川並衆の密偵たちは、そこで驚くべき風聞を耳にした。今川義元が数万の軍勢を率い、自ら尾張を征伐する、というものだ。年明けには三河一群に布令が出されるだろう、ということを農夫までが口にしていた。

 川並衆の密偵たちは仕事の途中だったが、これは事前に報告しておいた方がいいだろうと話し合い、二人が選ばれたということだった。

「だもんでそのこと、一刻も早くお頭のお耳にと思い、正月ではありますがここまでご足労いただきました」

 男はそう言って話を閉めた。

 小六と藤吉郎はお互いの顔を見合わせた。藤吉郎は餅を頬張ったままだ。将右衛門も黙ったまま杯を片手に使者の二人を見ている。

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