第72話 花蔵の乱 そして、蜜柑

 恵探の残兵はなんとか花倉へ戻ることが出来た。その後小さな争いがいくつかあったが、それらはほぼ恵探側の挑発といえた。

 承芳らは動かない。万全を尽くしていた。駿府での勝利の後すぐに武田、北条に連絡を取り、家督相続の後ろ盾となることを約束させた。北条はその証として六月八日に恵探派の残党を東駿河で掃討している。

 承芳勢は満を持して軍を動かした。彼らが花倉を攻めたのは六月十日のことだった。

 攻撃は花倉の前線基地ともいえるかたの上城かみじょう(焼津市方ノ上)から始まった。

 猛攻だった。弓矢や石つぶての後には我先にと承芳の兵が城の囲みに群がった。堪らず恵探の兵は撤退し、花倉へ逃亡した。

 承芳軍は追撃し、花倉城を取り囲んだ。

 花倉城は葉梨城ともいう。南北朝時代、今川家二代範氏のりうじがこの城を築き、南朝勢力を駆逐した。城は天嶮の山城で、攻め難い。

 しかし承芳軍は奮闘した。城は落城寸前まで追い込まれ、恵探は城を捨て、山一つを越えて瀬戸谷せとのや普門寺ふもんじまで逃げた。

 恵探は再起を図ろうとした。しかし承芳勢の追撃が厳しく、普門寺から逃れることが出来ない。

 成す術を失った玄広恵探は自刃した。花倉城に住んでいた彼の生母も一緒だったという。

 幕府からの認可状は花倉の戦いの中で岡部親綱が取り戻した。彼は戦いにおいても抜群の働きをしたという。栴岳承芳は名を正式に義元と改め、十一月三日付で親綱に感状を与えた。

 ちなみに、永禄二年の時点において鳴海城を守る岡部元信は、親綱の孫といわれている。



 中御門宣将を送別する宴の翌朝、義元は寿桂尼の屋敷に足を運んだ。持仏堂という名をもつその屋敷は同じ館内にあるのだが、入るのは久しぶりだった。その名の通り部屋はお寺の本堂のような造りになっており、大きな仏像が中にある。

「昨日は酒宴にご列座くださり、恐悦至極に存じます」

 義元が深々と頭を下げると寿桂尼も頭を下げ、

「いえいえ、酒宴のさなかさぞご迷惑な事であったでしょう。お詫び申し上げます」

「いや、しかし滅多に顔を出さない母上様が酒宴に来られたときは、少々驚きました」

「兄君のお孫様が京に戻られるとのことで、ご挨拶申し上げようと思ったのです」

「そうですか」

 義元は両腕を回して袂をくつろげ、

「家臣どもも喜んでおりました。母上様の盃をじかにお受けすることができたと」

 寿桂尼は手を口元にやり、小さく笑った。

「今わたくしが出来ることといえば、その位ですから」

「それはご謙遜を」

「いえ」

 寿桂尼は義元に向かって優しく微笑み、

「うれしいのですよ。このように静かな時を過ごすことが出来るようになって。これもそなたのこれまでのお働きがあったればこそ。本当に感謝いたします」

 しばらくの間の後、義元はやや上目遣いになって言った。

「京は、そろそろ雪でしょうか」

「さあ、でも、中御門の君が京に着く頃には、雪は積もっていることでしょうね」

「そうですね。ああ、そうそう。献上の品をこれへ」

 義元は思い出したように言い、後ろを振り返りながら両手を叩く。

 年若い小姓が襖を開け、しずしずと義元たちの前にやってきた。小姓は両手に籠を持っている。籠には蜜柑が五つ盛られていた。

「今日はこれをお届けに参りました」

 小姓が寿桂尼の前に籠を置き、深々とお辞儀をしたとあと、義元が言った。

「蜜柑ですか。そろそろ食べ頃ですね」

 寿桂尼はその色艶を眺めていたが、

「そう、五郎はいかがです。如才なく差配しておりますか」

 氏真のことを聞いてきた。義元はこの夏氏真に今川家の印判を渡すとき、事前に寿桂尼に報告した。寿桂尼はこのとき微笑みでこれに応えた。こうして今川家の実権継承が行われたが、やはり寿桂尼も気になっていたのだろう。

「はい、今のところ問題なくやっております。五郎に任せている駿河・遠江の統治はこれといった難もなく、三河は朝比奈(親徳)、関口(親永)の目付の元、松平蔵人(元康)の統治が順調にすすめられております」

 義元はそこまでを言うと一旦言葉を止め、寿桂尼が手に持っている蜜柑に目をやり、

それがしの役目は安定した三河と尾張の地を五郎に譲ることと心得ております。そう、尾張の実もそろそろ食べ頃と思われます。腐らぬうちに採りに行こうかと思います」

 寿桂尼の目を見つめながらそう言った。

「聞いてはおりましたが……、いつを考えておられます」

「そうですな。万端準備を整えておるところですから、来年の、田植えの時分辺りではないかと」

「そう、季は違いますね」

 進軍は夏になるという。蜜柑は冬。寿桂尼の言葉に義元は笑い、

「ま、腐らぬ前に事は終えようと思います」

「では、やはりそなたご自身がお向かいになられるのですか」

 顔に翳りを浮かべた母に向かって、義元は努めて明るく微笑みながら答えた。

「そのつもりです。なに、母上様にご心配をお掛けすることはないでしょう。熟れた果実をもぎ取りに出かけるだけのことですから」

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