第71話 花蔵の乱 駿府の戦い
夜明け頃、とはいえ空にはみるみる雲が広がり日の出の輝きを隠そうとしていた。
恵探の軍が安倍川の川岸まで進軍したとき、対岸に承芳の軍が布陣しているのが見えた。
対岸からはすぐに駿府の街となる。
恵探の軍は河川沿いに布陣している承芳の兵たちを見ても足を止めることなく、馬に乗ったまま川を越えてきた。進軍の勢いのまま一点突破を試みている。雑兵たちも次々と川を越えてきた。警戒のため陣を伸ばしていた承芳の軍は意外なほど簡単に恵探たちに突破された。
西の方に鬨の声、人馬の争う音を聞いた福嶋越前守も屋敷の門を開け、一斉に突撃を開始した。
「狙うは今川館、承芳殿の首のみぞ」
越前の声が響く。しかし多勢に無勢。敵に囲まれた越前たちは一歩も動けない状態となった。大将を狙った矢の群が雨のように降り注ぎ、馬上矢を全身に受けた福嶋越前守は愛馬の崩れに任せたがごとくどっと地上に倒れた。これが合図となり、今川の囲みは一斉に福島の兵に向かって槍を注いだ。
数の少ないことが逆に幸いしたのだろう。街中に入った恵探の兵たちは所々で突撃を繰り返した。
いつしか駿府市中には雨が降り出していた。当時の五月二十五日は現在の六月二十三日に当たる。丁度梅雨の時期であり一年で最も日の長い夏至の頃だ。両軍雨にぐっしょりと濡れ、戦いはゲリラ戦の様相を呈していた。
しかし、数を恃みとする承芳の軍は次第に恵探たちを圧迫した。勢いだけで市中に入った恵探の兵たちは、これといった作戦もなかったためいつしか散り散りとなり、軍団となった承芳の兵たちに周りを囲まれ、討ち取られていった。
いつしか後方で指揮をとる恵探自身の命も危うい状況になっている。
「殿、ここらが潮時と思われる。お
後ろに控えていた
「退くといって、どこに退く」
恵探、眼が血走っていた。眼の先には雨雲に覆われ黒く濡れている今川館がある。見えているのに、ひどく遠い。
「確かに、花倉へ向かう西の道は敵に待ち伏せされているでしょう。しかし東はまだ手薄であると思われます」
正成は深く頭を下げながら答えた。白髪まじりのその頭を見ながら恵探はふと、
(暑いな)
と思った。気づくと彼の全身は、甲冑の隙間から流れ出そうなほどに汗まみれだった。
「そうか」
彼は年を経た猛将の言葉に素直に頷いた。
「花倉へ戻れば再起が図れます。それまではご自重くだされ」
正成は尚も頭を下げながら言った。恵探は聞きながらも、
(今、
と思っている。
恵探たちは東へ逃れ、久能山に着いたのはもう夕刻近い頃だった。一旦
寿桂尼が今川館に戻ったのはそれより以前、雨の勢いがやや弱まった時分だった。
門前には甲冑を着込んだ承芳と法衣姿の九英承菊が出迎えていた。
「母上、ご無事で」
承芳は涙声になっていた。寿桂尼は思わずわが子を抱きしめたい衝動に駆られたが、
(私には言わねばならぬことがある)
堪えると、ゆっくりと頭を下げた。いわばこの言葉が仕上げといえた。
「申し訳ござりませぬ。大事な認可状を奪われてしまいました」
奪われた、これが重要だった。
決して寿桂尼が渡したわけではなく、玄光恵探が幕府からの認可状を略奪したという事実を作り上げる。これで玄光恵探が反乱者であるということを内外に告知できる。
「ほう、福嶋越前がですか」
承菊が言った。真顔を装っているが目の奥が笑っている。ゆっくりと整えるように言った彼の言葉は寿桂尼にとってむしろ好都合だった。寿桂尼は首を横に振り、
「いえ、越前殿は反対し、
「そうですか」
承菊はあごをつるりと撫で、
「そうであれば、越前殿のお子達は、たとえ捕らえても死を与えるわけにはいきませんな」
むしろ承芳と周りで控えている家臣たちに聞かせるような声の響きだった。
寿桂尼は安堵した。もし福嶋越前守が自分を拉致し認可状を奪ったとなれば、越前は今川家だけでなく、幕府にとっても反逆者となる。本人はもとより親類縁者もただでは済まないだろう。
寿桂尼としてそれは忍びない。越前のこれまでの忠義に報いてあげたかった。
「ところで、戦のほうはどうですか」
寿桂尼の質問に承菊は顎にやっていた右手を頭の後ろにもっていき、
「まだまだです。お屋形様のご命令がなかなか行き渡らない。これは一考が必要でしょう」
剃り上がった後頭部をポンポンと叩いた。
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