永禄二年 冬

第59話 富士山と義元

 義元は多忙だった。

 大高城とその周辺への統治策と織田の砦攻略のため、毎日のように評定が続いている。

 八月八日には滑革ぬめかわ薫皮くすべがわそれぞれ二十五枚を納入させた。元々来年に購入予定の分だったが、軍装の修繕、補充などに必要だったため前倒しで徴収を命じた。

 同月二十一日、大高城城代に朝比奈輝勝てるかつを任命した。輝勝は遠江を地盤とする朝比奈一族の一人だ。大高城城代としての資格は十分にある。

 評定ではすでに尾張に赴任していた三浦義就よしなりや飯尾乗連のりつらなどの案も出たが、織田との最前線での戦力を削ぎたくないということで、遠江朝比奈の兵力を投入することになった。

 このことにより朝比奈輝勝には下長尾(現愛知県蒲郡市)の領地を長く治めることを約束している。これには大高城と領土を与えたのではなく、あくまで城主代理だということを明確にする意味合いもあった。

 つまり輝勝の駐留は一時的なものだと考えている。

 これが決まると次は、大高城周辺の砦を攻略するための具体的な作戦会議が続いた。

 主将は朝比奈親徳とし、副将格として遠州掛川城の朝比奈泰朝と朝比奈輝勝を任命。輝勝はそのまま大高城代として城に入ることとした。

 この作戦の第一目標は船による大高城への兵糧の補給。そして第二目標が砦の攻落だ。

 対象は大高城に楔を打っている向山むかいやまと南面に位置する氷上ひかみ正光寺しょうこうじの各砦とした。

 投入できる人数と効果を考えた結果だ。

 北の鷲津、東の丸根まで潰すには手間がかかり、残しても左程問題はないと想定できた。

 織田にすれば大高を囲む三砦を失うことで、この両砦を維持するのは人的にも位置的にも非効率と考えるだろう。両砦は大高城の北側を東西に隔てる山上にあり、監視以上の用途がないためだ。これらの砦を維持するにしても、織田は大高城の動きに対応することが出来なくなるだろう。。

 部隊編成は三河勢を主とし、船による海上と歩兵による陸上からの両面攻撃と決まった。あとは兵の徴集や船、戦備の手配など、具体的な準備となる。


 そんなある朝、洗面のために廊下を歩く義元がふと気付くと、太い竪格子たてごうしが並ぶ武者窓の外で、富士の頂が真白になっていた。あれは春まで残る雪だろう。

 今日は寒いせいだろうか。いつもより富士の山容がはっきりとしているように思える。

『独り大雄峰だいゆうほうに坐す、か』

 義元はついひとりごちた。

 中国が唐の時代、ある僧が百丈という名僧に「この世で最もありがたいことはなにか」と聞いた。そのときの百丈の答えがこれだった。

 大雄峰とは百丈が住んでいた大雄山の峰をいう。今ここで生かされて在るということがありがたい、という意だといわれている。

 義元はしばらく立ち止まって富士の姿を見つめていた。

――今、ここに在ることか。

 若い頃は公案(禅宗の修行僧に与えられる問題)として何度も自身に問い続けた言葉だ。あの時はその時々で答えと思えるものが変わった。

 今はもう深く考えることもない。

(もうすぐ冬だな)

 すぐに別のことが頭の中に浮かんでいる。

(本格的な寒さとなる前に、かたをつけねば)

 大高城の物資補給と周辺の砦攻略のことだ。朝が一段と寒くなるな、とも思った。

 大雄峰と頭の中で形容した富士山だが、こどもの頃、彼はあの山を好きになれなかった。

――富士は田舎であることの象徴ではないか。

 と思っていた。

 義元にとって断片的でしかない古い記憶がある。まだ彼が方菊丸ほうぎくまると呼ばれていた幼年の頃、なにげなく『竹取物語』を読んだ。

 文字を覚え始め、読めるということに喜びを感じるようになった頃だと思われる。いつも音読している四書五経などの書物とはちょっと違ったものを読んでみたくなったのだろう。

 

 月に戻った(昇天した)かぐや姫は、別れの歌を記した文と不老不死の薬を残しました。

 おきなおうなも必要ない、と薬を飲むことを拒みました。悲しみにくれたみかどは大臣・公達きんだちを呼び「天に一番近い山はどこか」とお尋ねになりました。すると中の一人が「駿河の国にございます」と答えました。

 そこで勅使がその山の頂上に登り、不老不死の薬と文を一緒に燃やしました。それからその山は『ふしの山』富士山と呼ばれるようになったということです。


 このラストを読み終えた時、幼い方菊丸は泣いた。

 もし彼がもう少し年齢を重ねていたらきっとこう説明できただろう。富士山は天に一番近い場所、つまり未開の奥地ではないか。帝も知らない辺境の地、それが駿河だ、と。

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