第58話 兵蔵の報告、信長の思惑

 縁側に出た信長は、その場で胡坐をかきながら言った。

「竹千代は元気であったか」

「は、筋骨たくましい若殿となっておられました」

 庭先で平伏しながら丹羽兵蔵は答えた。

「そうか」

 信長が言った後、信長の背後に控えている簗田弥次右衛門の「申せ」という言葉により、頭を少しだけ上げた兵蔵は松平元康へのコンタクトの模様を端的に報告した。

 口上が終わると兵蔵は再び頭を下げ、信長の言葉を待った。しかし信長は、口を開かない。

(あれ?)

 兵蔵が少し頭を上げると、信長はニヤニヤと笑いながら肘を膝にのせて頬杖をついている。

「で、滑皮と薫皮の話は裏が取れたのか」

 と、本筋とは違うことを聞いてきた。今川義元が大井掃部丞に前倒しで納めさせたという皮革の話だ。

「は、証拠はまだ掴めておりませんが、ほぼ間違いなかろうと思われます」

「理由は」

「一つは皮革職人たちの動きが慌ただしくなったこと。そして八月の中ごろ、大井掃部丞からの荷駄が駿府今川館に入ったのを草の一人が確認しております」

 兵蔵は密偵を草という言葉を使って言った。

 信長はうなずいた。

 丹羽兵蔵が退出し、部屋の中に入ると信長は上座に座った。正面には平伏した簗田政綱の姿がある。

「で、どうだった」

 信長の声にゆっくりと顔を上げ、政綱は報告を始めた。

「ほう、やはり藤吉郎が道筋を付けたのか」

 政綱の報告は丹羽兵蔵を見張っていた別の密偵のものだった。兵蔵の身に何かが起こった場合、真っ先に信長に情報を送るのが使命だった。拘束されるにせよ殺されるにせよ、兵蔵の始末は秘密裏に行われる可能性があるためだ。

 また交渉が成功し清須に戻ってきたときも、彼の動きと松平の様子を外からの目で報告するのが任務だった。

 そして今、その報告を信長は受けている。

 信長が一番知りたかったのは、松平元康が独立の意思を持っているかどうか、ということだった。

 自身の姪を嫁に与え、三河への定書を任せたことだけでなく、今川義元が元康の力量を買っており、今川の有力な家臣として育てようとしていることは、様々な情報により推測できた。

――では、元康はどうか。

 今川の一家臣として安定路線を考えているのか。それとも三河の棟梁として独立独歩の道を歩みたいと望んでいるのか。そのことを知るために丹羽兵蔵を駿府に行かせた。

 もし兵蔵が捕えられるか殺されるかしていれば、元康は独立の望みを持っていないということだろう。しかし、兵蔵が無事に清須の土を踏んでいることから、信長はまだ脈があるな、と見なすことができた。

 今川が尾張に侵攻するときは、松平が最前線に配される可能性が高い。三河が彼らの領地として認められたということは、その返礼としての奉公が必要だ。そして尾張は三河の隣の地となる。

 つまり松平は今川家における尾張攻略の先兵であり、織田対今川の重要な起点となる。

 また信長としては、今川家臣団の誰に連絡が取れるかというと、幼い頃尾張にいた竹千代、松平元康以外に思いつく人物がいなかったという事情もある。

(成果はあったな)

 と、信長は思っている。

 このことで松平を織田方に取り込めるとは思わないが、今川の情報収集や何らかの示し合せが出来るかもしれない。少なくとも元康にとっては改めて自分の立場を鑑み、これからどうすべきかを考える機会になったのではないか。

――もし元康が兵蔵を今川方に引き渡していたら、

 実は信長は、それもよし、と考えていた。

 いかに速やかに兵蔵を引き渡しても、今川義元は元康と三河の松平勢に警戒の目を光らせる可能性がある。その後も二、三回松平に接触を試みれば、義元に猜疑心を植え付けることが出来るかもしれない。

 なんらかの失敗や密告などにより、松平からの通報なしに兵蔵が捕らえられたとすれば、なお面白い。

 元康自身も疑われ、場合によっては首を討たれていたかもしれない。

 もし誰にも知られず消されていたとしても、こちらのやりようはいくつもある。

(で、戻ってきたわけだが)

 弥次右衛門の報告が終わり、一人になっても信長は、前に置いた脇息に両肘を乗せ、両手で頬杖を突きながらじっと動かずにいる。

 松平元康はうまくやればもっと面白くなるかもしれない。そう考えている。

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