第57話 松平家の評定
「
元康がこの座の最年長に声をかけた。酒井
「放っておくのが上策と心得ます」
「ほう」
「当然あの商人どもはまた来るのでしょうが、種子島が安く手に入るならそれでよいと考えます」
「この種子島は?」
「殿の手元のそれはお近づきの印ということでしょう。貰っておきましょう」
あっさりとした一言に元康はクッと吹きだした。家臣の中からも笑みがこぼれている。
「与七郎はどうじゃ」
元康に名を呼ばれた石川数正はこのとき二十七歳。それまでぎゅっと結んでいた口元を緩めた。
「それがしはやや意見を異にします。あれは却って高い買い物になりはしないでしょうか」
数正は織田と鉄炮の取引をしたことが露見したときのことを言いたいのだろう。
「確かに、あの者らが信用できるわけでもないですからな」
「うん」
元康はその顔にやや沈んだ色を浮かべる。
「そうなると、あれらを早期に除くのが得策ということになり申そう」
酒井忠次が言った。要は織田の使者である二人を今川に突き出すということだろう。
「ただ、今川の大殿様は、大高城を囲む砦への対策で重臣たちと幾度も評定を重ねているとのこと。近いうちに出陣のお触れが出されましょう」
忠次は一旦言葉を切り、目だけで一座を見回すと、
「今川様が我らをお疑いになることはよもやあるまいとは思うが、妙な気を回して却って誠意が伝わらぬのも、よくあることだと思われます」
織田信長が元康に接触しようとしていることを知れば、今川義元は元康に疑念を持つかもしれないし、元康周辺の見張りを強化する可能性も否定できない。忠次はそう言おうとしている。
「では、ないことにする、というのは」
数正が言った。織田の密偵である二人を闇に葬るという意味だろう。
「いや、それをするとあの御仁は何か別の手を仕掛けてくるやもしれぬ。そう思われぬか」
忠次が数正に向けて言った。あの御仁とは信長を指している。
「確かに」
言ったのは高力清長だった。
彼らがこういうとき織田という言葉を一言も発しないのは、ずっと人質として駿府に暮らしていたことによる癖のようなものだ。この屋敷内で忍びなどに評定を聞かれる可能性は極めて低いと思われるが、それでもぼかした言い方になってしまう。彼らは見張ることは得手ではないが、見張られることには慣れていた。
さらに彼らには、今川家に決して知られてはいけない本音がある。
当主元康は、松平家の独立を常に心の奥底にもっているということだ。だがその理由は、あまりポジティブではない。
今川の血につながる嫁を貰い、この春嫡子が出来た。義元は元康を三河の当主として支配することを認めてくれた。
しかし元康は、自身が今川の傀儡となり、今川に連なる血を持つ子が生まれた今、いつ自分が邪魔と思われ粛清されるか、という恐怖をいつも持っていた。
これは、彼が幼少時代から見てきたことと関係が深いだろう。人質という経験の中で、絶えず大人たちの確執や裏切りを見続けてきた。
元康のこの気持ちは、彼と寝食を共にする家臣たちにとっても共有できるものだった。
「確かに、左衛門殿のおっしゃる通りですな」
石川数正は静かに目を閉じた。
今川と織田が戦を始めようとしている現在、酒井忠次が言うように、織田が何らかの接触を試みようとしていることを今川に知らせるのは上策ではない。また、密偵二人を抹殺すれば、織田に次の手を打たせる機会ともなる。例えば織田がそのことを駿府中に流布すれば、我が家は疑いの目で見られることになるだろう。
また、いつか松平家が今川の支配から放たれる日がくることを思うならば、織田との細い糸をこちらで断ち切るのは良策ではない、ということだ。
「そうか」
数正の言葉に頷いた元康は、
「他に意見のある者はいないか」
家臣たちを見回した。みな賛同の表情だ。元康はもう一度一人一人の顔を確かめると、
「鍋之助はどうじゃ」
後ろを向いて太刀持ちをしている小姓に聞いた。彼は本多鍋之助という。後の名は平八郎忠勝。
「わたくしは」
名を呼ばれた鍋之助はやや驚き、頭を下げると、
「分かりませぬ」
はにかむような小声で言った。
「そうか」
元康は屈託のない笑顔を小姓に向けると、一座に向かって言った。
「よし、ではそれでいく。皆の者、大儀であった」
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