第56話 信長の伝言
部屋の周囲の緊張感は、織田家であればここまで露骨にならない。垢ぬけていないといえるかもしれない。どこに何人潜んでいるかがある程度分かるくらいだ。今川家の人質として長く過ごしてきたため、このような状況が少なかったのだろう。
さらに太刀持ちの小姓は、事が起こると元康に太刀を差し出す前に自ら刀身を抜いて立ち向かってきそうな目付きをしている。緊張しているのかもしれないが、あり得ない。
「貧乏所帯でな、その方らが期待するような本数は買えぬと思うぞ」
兵蔵の気分を知ってか知らずか、元康の口調はややくだけたものだった。
「いえ」
返事をすると、兵蔵はむしろここだと思った。時を過ぎるほど、緊張感は高まりそうだ。
「われらの主人から言付かっているものがあります。ご覧ください」
ふところから懸け紙に包んだ書状を取り出し、平伏した状態になって前に置く。
元康が後ろの太刀持ちに顎を向けると、太刀持ちは太刀を持ったまま歩き出した。書状を掴むと元康に捧げるように渡す。
懸け紙を外し、書状を読んだ元康の顔が一瞬にして変わった。驚きに近い。
しばらくの沈黙。
元康は沈思している。兵蔵も平伏し、上目づかいで元康を見詰めている。藤吉郎はそんな二人の表情を一度ずつチラリと伺い深く頭を下げた。
やがて元康はゆっくりと口を開く。
「その方らの主人はもっと種子島を安くしてくれるようだぞ。なんならタダでも良いという勢いだ」
「……?」
「それとな、書面ではそなたに口上を言付けてあると書いてある。早速ではあるが、その一切を承りたい」
(やはり、誰が主人か分かったようだな)
兵蔵は商人から武士に口調を変えて話を始める。
「は、わが
兵蔵の口調の変化に反応したのだろう。部屋の周囲の空気が明らかに変わった。元康の向こうにいる太刀持ちも驚きを隠せない表情をしている。
(素人め)
兵蔵は構わず、ここで一度呼吸を調え、顔を上げて言った。
「悪いようにはせぬ。以上です」
しばしの沈黙。
「以上⁉…それだけか」
絶句した元康は、質問というよりも自らに問いかけるような口調で言った。
(さて、どう出る)
兵蔵が床に付けている手足に力を入れ何事にも対応できるよう緊張すると、
「返事は必要か?」
元康は、目をじっと兵蔵に向けている。
「いえ、これだけをお伝えするように、とのことでした」
「ほう、そなた、それだけのためにここまで来たのか」
「はっ」
兵蔵があらためて深く平伏をすると、
「そなた、名は」
「丹羽兵蔵と申します」
「そこな小者は藤吉郎でよいのか」
「は、藤吉郎でございます」
「そうか」
また沈黙となり、元康は持っていた鉄炮を撫でるように触っている。しばらくして、
「買うか買わぬかはもう少し考えさせてもらう。この種子島はもう少し預かってもよいか」
目線を鉄炮から兵蔵に移し、一言一言選ぶように言った。
「承知いたしました」
間髪をおかず兵蔵は答える。頭は無意識に床に着いていた。
「どう思う」
居並ぶ家臣の顔を見回しながら松平元康が口を切った。
誰も返事がない。
兵蔵と藤吉郎が屋敷を辞した後、元康は屋敷内の家臣を集めた。
集まった家臣に対して元康が最初にしたことは、書状を一人一人に回せて見せることだった。
『堺から調達した鉄炮の一部を松平家にお届けしたいと思います。長いお付き合いをしたいのでどんなご相談にも乗りますし、どんな用途でお使いいただいても構いません』
まるで商人のような文章だが、その内容と宛名を見て元康はすぐに『織田信長だ』と察しをつけた。
信長がこの二月に堺へ行ったことは情報として知っている。そして宛名は『三』の一文字。これは信長の通称『三郎』のことだろう。幼い元康が織田家の人質として尾張熱田に寓していたときに名乗っていた。
そしてもう一つ驚きがあった。書の頭に『
しかし、信長は既に知っている。元康は一瞬、自分の背に冷たい汗が流れるような感覚を感じた。
「確かに人の考えないことをあえてして、喜んでいたな。あの御仁は」
元康が小さくつぶやく。そしてまた静寂。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます