第55話 松平元康への対面
それから何日かが過ぎた。その間、兵蔵は松平元康に関する様々な情報を集めていた。
このころの松平元康は自邸と妻子の住んでいる関口家を往復する日々が続いている。妻子を住まわせるには彼の家は小さすぎたためだ。
今川館に常勤することもなかったので、昼間は自邸で夜は関口家という毎日を過ごしていた。いわば通い婚だった。
水練のために近くの川まで行くこと。近頃身体が弱くなった源応尼を見舞いに知源院へ行くこと。定期的に今川館に出仕すること。そしてたまに鷹野に出かけること。兵蔵の調べた限りにおいて、これが元康の生活のすべてだった。
藤吉郎から一緒に松平の屋敷に行ってほしい旨の連絡が来たのは、兵蔵が松平屋敷前に行った時から半月ほど経った頃だった。
その間、藤吉郎は武器商人として度々出入りしていたらしい。松平屋敷に着くと、門前にいた子どもが「待っておれ」と屋敷内に入っていった。
(小姓だろうか)
態度はでかいがまだ前髪も取れていない。元服をしていないということだ。
「今日は暑いですね」
しばらく待っていると隣に立つ藤吉郎が声を掛けてきた。目をやると実際顔に汗を浮かべてはいるが、声音も顔ものんびりとしている。
「ああ」
それまで冷汗の出そうな緊張感を持っていた兵蔵だったが、不思議な落ち着きを感じた。
(もしこれからのことに失敗すれば、俺もこの男も命は無いのだろうな)
猿のような顔の小男を横目で見続けながら、そのようなことを思っている。
これは使命感や藤吉郎に対する憐憫の情などではない。他人事のような現状把握だ。
当然自分の任務はまだ藤吉郎に話していない。しかし、屋敷内に入れば嫌でも知ることになるだろう。そのときのこの男の反応を含め、これから起こることは全く予想が付かない。
(なるようにしかならぬな)
ほとんど感情のない心で屋敷を見ていると、先ほどの子どもが玄関から出てきた。
「入れ」
一言言った。
「へい」
いかにも商人風の返事で藤吉郎は頭を下げている。兵蔵も同じく深々と頭を下げた。
兵蔵と藤吉郎は屋敷内の一室に通された。
さほど広くはないが、どうやら面会の間のようだ。彼らの座る板敷の前に一段高く畳敷きがある。
待つかな、と思ったが、存外早く先ほどの子どもが来た。
「待たせた」
子どもは言うとすぐ部屋を出た。兵蔵と藤吉郎はその言葉で平伏する。
部屋の中に二人分の足音が入ってきた。一人は元康でもう一人は太刀持ちであろう。一つの足音の主は畳敷きの上座に座るといきなり言った。
「この種子島、玉と火薬は付いているか」
「は?」
思わず少し頭を上げた。
「値段はその者から聞いておる。その値段で玉や火薬を付けることは出来るかということだ」
兵蔵は面食らった。前にいる三河の当主が確定したばかりの若殿は、必要以上に型通りの挨拶を始めるのだろうと覚悟していた。まさか自ら交渉事を始めるとは思わなかった。見事にかわされた気分だ。
「はっ、」
兵蔵は答えるために頭を上げた。三河の国主への挨拶なら平伏したままだったろうが、相手は交渉をしようとしている。その方がいいだろうと思った。
「玉や火薬はご要望に沿えるようにいたします。ご購入の本数によってはお値段の方もさらに努力します」
さっきからずっとやっていたのだろう。元康は鉄炮を持ちながら、あちこちをじっと眺めている。つやつやと血色のいい丸顔、一見小太りに見えるが、体の中に詰まっているのは固い筋肉であろう。年は十八と聞いていたが、二十歳から二、三歳は過ぎているように見える。
兵蔵が言い終わると、
「そうか」
元康はやっと兵蔵の方を向き、ニッと笑った。
(いい顔だ)
声でなんとなく無愛想な印象を持っていただけに、染み入るような笑顔だった。まずいな、と思い、兵蔵はそっと後ろの太刀持ちを見た。
――なんだ、
先程の子どもではないか、と思った。他に家来はいないのか、とは思わない。部屋の周り、あちこちにじっとなりを潜めている気配があるからだ。
それにしても、と兵蔵はこの場でなければ笑い出してしまいそうな気分になった。
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