第53話 丹羽兵蔵と藤吉郎

(さあ、どうする)

 商人姿の丹羽兵蔵は知源院の寺門にある石段に腰掛け、再び問いの言葉を頭に浮かべた。

 さっき屋敷を見たときに思ったとおり、中に入ることは左程難しくはない。問題はその後だ。

 どうすれば隣人たちが気付くことなく元康に面会することができるか。そしてどうすれば自分が織田の使者であることを信じてもらい、どのようにお屋形様の言葉を伝えるか。

「これを見せればよいそうだ」

 そう言って簗田弥次右衛門は一枚の書状を渡してくれた。何を書いているかは分からないが、きっと松平の若殿はお屋形様からの書状であることが分かるだろう、とのことだった。

 それにしても今回、お屋形様が何をしようとしているのか、それがよく分からない。まあ元々あのお方の考えはよく分からないのだが、此度は特に想像ができない。松平元康に伝える言葉は忘れもしないが、どんな意味があるのか全く分からない。

 しかし、だからこそ松平の若殿に会い、お屋形様の言葉を伝える。そして若殿の返事を貰い、無事に尾張まで帰ることを考えればよい。

(ま、いずれにしても、やってみなければ分かるまい)

 実際いくら頭の中で状況を想定しても、その通りになったためしがない。ならば経験と勘に頼り、最初の動きだけを決めればよい。

 そう思ったとき兵蔵は頬に涼しい風を感じた。頭を上げると鰯雲、青空の高みに白墨を吹き散らしたような雲が広がっている。

(もう秋だな)

 そういえば夏の暑さも薄れ、朝晩は随分過ごしやすくなってきた。

「よし」

 兵蔵は一声かけると威勢良く立ち上がった。帰りにもう一度屋敷を見、ゆっくりと策を練ろう。そう思った。

 そのとき、

(藤吉郎ではないのか)

 一人の男が松平の屋敷の隣にある孕石の屋敷に入っていった。男は背中に長細い木の箱を背負っている。

 しばらくという間もなく男は孕石の門を出た。門の前で頭を下げ、隣の松平の門前まで歩く。立ち止まった男は背中に抱えていた木箱を手に持ち、こちらからは見えない誰かに話をしている。鉄炮か何かを売り込もうとしているようだ。

(やはり藤吉郎だ)

 どうやら交渉は成功したようだ。藤吉郎は難無く松平の門内に入っていった。こちらのことを気付いているのか入る前にチラリと一度顔を向けていた。

 兵蔵は立ち上がってその様子を見ていたが、もう一度石段に座って待つことにした。

 四半時(約三十分)も経たないうちに藤吉郎は松平の屋敷から出てきた。

 長細い箱がない。

 不思議に思っている兵蔵をよそに、頭を下げながら松平の門を出た藤吉郎は、兵蔵に目を向けぬまま三軒目の北条助五郎の屋敷に入る。しかしすぐに家臣らしき男に門外に出された。

 藤吉郎はそれでも北条家に向けて頭を一つ下げ、元来た道を小梳神社に向けて歩いて行った。


 遠くからこちらを見ている丹羽兵蔵に気付かないふりをしながら、藤吉郎は吹き出したい気持ちになっていた。

 兵蔵が特別な任務を帯びていることは駿府に着く前から気付いていた。時折見せる落ち着きのない姿を藤吉郎は見逃さない。

 何かある、と何度か兵蔵の後を付けていた。

 そして今日、少将之宮に入る兵蔵の行動を追って、多分ここだな、と当りを付けた。

――松平元康の屋敷。

 兵蔵は何気ない素振りで三軒の前を通り過ぎた。知源院の前まで歩くと、山門下の石段に腰かけ、じっと動かずにいる。まるで誰かを待っているようだ。

 しかし気を付けて見ていれば、兵蔵が松平屋敷に視線を集中させていることがすぐに分かる。

 どうやら屋敷内に入る方法を考えているようだ。

(忍び込む気か?正面から入るのか?)

 いずれにしても今自分が出来ることは一つだ、と藤吉郎は思っている。

 武器商人として松平の屋敷の中に入り、中を見ることだ。

 別に兵蔵の先を越す気はないし、恩を売る気もない。ただ自分はそのような仕事を要求されているのだろうと思うだけだ。

 これまで藤吉郎は小者として雑事をしていた。そんな人物に情報探索の仕事が与えられれば、それはすなわち命を捨てるということだ。藤吉郎は何度かそんな例を見ていた。もしこの仕事もそうだと感じたら藤吉郎は清須から逐電していただろう。

 しかし今回は違う。

 自分への人選は信長自身がしたと藤吉郎は見ている。

 どうやらお屋形様は、一度使えると思った人間を徹底的に試してみたくなるらしい。このような人は一度見限ると、二度とこちらに目を向けることがないだろう。ならば自分は、お屋形様が認めるような働きをしなければならない。

 藤吉郎はすぐに宿舎に戻り、清須から持ってきた箱入りの鉄炮を一丁背中に括り付けた。そして松平の屋敷の前まで戻ると、念のため筋の三軒すべてに入ることにした。疑われないためと、他の二軒を間近に見ておくことも無駄ではないだろうと考えたからだ。

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