第50話 藤吉郎の登用

 信長はそんな小姓の背中を見ながら、ふと誰にも気付かれない位に口角を上げると言った。

「相分かった。藤吉郎を牢に入れよ」

 使える、あの男は。信長はそう思っている。

 すこし悔しい気もするが藤吉郎の言った通りだ。又左には逃げのびてほしいと願っている自分がいる。

「あとは任せた」

 柴田勝家に向かって言うと信長はズカズカと部屋を出ていった。勝家や可成なら又左も藤吉郎も殺すようなことはせず、何らかの便宜も図ることだろう。そう思っている。


「これをもって長尾弾正少弼だんじょうしょうひつ殿、将軍一族に準ずる待遇を得、塗輿の使用を認める御内書、そして関東管領上杉家の進退をあずかる旨の御内書も手にしたとのことです」

 事件から数日後、清須城にある信長の居室、京から戻って来た密偵の丹羽兵蔵が信長に報告をしている。信長は縁側に腰掛け、兵蔵は庭で両手を付いていた。部屋の中では兵蔵の直属の上司である簗田弥次右衛門が控えている。

「そうか、で、」

「はっ、それから三日後、六月二十九日には足利将軍家より鉄炮と火薬の調合書を賜った由。これは豊後の大友(義鎮よししげ、後の宗麟そうりん)殿が献上したものといわれております」

「ほう」

「その後も長尾殿は近江坂本を拠点としながら、関白太政大臣近衛(前嗣さきつぐ、後の前久さきひさ)卿をはじめとした公家衆、そして時には公方くぼう様(将軍足利義輝)とも酒席や歌の会を催しているとのことです」

「よう分かった。弾正少弼はしばらく動かぬということだな」

「御意にござります」

「ご苦労、下がってよい」

 信長は兵蔵に言い、

「そう、その方は上洛の折、美濃の討手が来ている事を知らせてくれた者だったな」

「お、お見知りおき下されましたか」

「おう、頼むぞ、これからも」

「あ、ありがたき幸せ」

 丹羽兵蔵、全身が固まったように平伏した。目が感動の色を帯びている。

「驚きました。お屋形様があのようなことを仰せられるとは」

 丹羽兵蔵が下がり信長が室内に入ると、簗田弥次右衛門が言葉とは裏腹に全く表情のない顔で言った。

「言うはただよ。安いものよ」

 信長、こちらも真顔で答える。弥次右衛門は一瞬作ったように破顔し、また表情のない顔に戻って平伏すると、

「して、御用の趣は」

 感情のない声で言った。

「おう、そなたの手の者で駿府の松平の元へ行ってもらいたい」

「は、松平殿ですか」

「そうよ」

 いつもの信長なら二度言わせるな、と不快感を表していただろう。しかしこの時の信長は、思わず弥次右衛門が口にした繰り返しの言葉を咎めはしなかった。簗田弥次右衛門は両手を床につけたまま改めて信長の顔を見つめた。信長は真顔のままだった。

「では、松平殿への口上は」

「悪いようにはせぬ、それだけでよい」

「は⁉」

 弥次右衛門、短く返事をしたが、信長の真意がさっぱり分からない。と、

「さきほどの男な、行かすのは奴でもよいぞ」

 今思いついたかのような口調で信長は言い、

「そう、そなた藤吉郎という男を知っておるか」

 やや笑顔になって弥次右衛門に目を向けた。

 弥次右衛門は思い出すように左上に視線を向け、

「小者にそのような名の者がいましたな。確か前田殿の件で、今は牢に入っていると」

「どうせすぐ出る。そ奴も付ければよい」

 これだけ言うと弥次右衛門を下がらせた。

 言葉だけなら誰でもよく、ただの思い付きのように聞こえた。

 しかし弥次右衛門に指示をするとき、信長が人選を示したのは初めての事だった。


 数日後、丹羽兵蔵は駿府にいた。

(お屋形様のために命をかけるのだ)

 兵蔵の心は逸っていた。二度もお目通りが適っただけでなく、お屋形様ご自身が声を掛け労ってくれた。この任務もお屋形様が自ら指名してくれたと簗田様から聞いた。しかもおさとして配下も付けてもらった。

 ここまで手厚くしていただいて、失敗などは許されない。

(何としてでも松平殿にお屋形様からのお言葉を伝えなければ)

 何らかの手を使って松平の屋敷に入り、織田の使者としての役目を果たさなければ、と思う。

 しかし、松平に伝手つてはない。

 どんな手を使うか、ということを駿府に向かう間もずっと考えていた。

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