第49話 笄(こうがい)斬り

 清須城下で事件があった。

 信長の近臣の一人前田利家が同朋衆どうぼうしゅう拾阿弥じゅうあみと諍いを起こし、刃傷沙汰となった。

 元々は利家の新妻まつから利家に贈られていたこうがいを、拾阿弥が盗んだことに始まる。

 笄は刀や脇差の鞘に挿している棒型の髪の毛を整える道具で、装飾品(アクセサリー)としての用途もあった。

 利家は信長に成敗を訴え出たが、拾阿弥が信長に詫びを入れてきたこともあり信長は許さなかった。

 しかし、その後も陰で拾阿弥は利家の悪口を言い触らしていた。

「成敗すると一旦漢が口をしたくせにあのざまだ」

「本当はお屋形様が怖くて切る度胸もないのだろう」

 拾阿弥は信長から処分を受けなかったことで増長したらしい。この人物は茶の湯やお香、連歌などの芸事に秀でており、信長の近くにいることが多かった。拾阿弥はそのことを鼻にかけ、以前から利家はもちろん織田の家臣の誰にも横柄な態度をとっていた。

 一方利家、彼は犬千代と呼ばれた少年時代から信長に仕えている。しかも昼間は信長が連れ歩く取り巻きの一人としていつも一緒に行動し、夜は衆道の関係にあった。

 今はお屋形様のお側に仕える機会が減ったが、自分の方が主君との絆が深いという自負がある。しかも拾阿弥は同朋衆といっても、主君の雑務や暇つぶしの相手となるいわゆる茶坊主だ。

 利家、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

 元々考えるより先に手が出るタイプだ。即行動に移そうとした。

 信長が清須城二の丸のやぐらに上っていた時、正装である肩衣姿の利家が無理やり拾阿弥を引き連れて庭先に現れ、櫓の信長に一礼後、一刀のもとに拾阿弥を切り下げた。

 利家の一太刀は拾阿弥の肩口から心臓にまで達した。即死だった。

 利家は立ったまま深々とお辞儀をし、庭先を出ていった。

 これを見た信長は、激怒した。

「犬千代を連れてこい」

 と大変な剣幕で櫓を下りた。

 当然の事ながら家中は私闘を禁じている。それを昔からの『舎弟』といっていいほどの近習が破ってしまった。

 しかも時期が悪い。鳴海・大高の両城を五つの付城で囲んだだけでなく、ついこの前には大高への付城を増やした。その中の一つ向山むかいやまの付城は誰が見ても今川勢を挑発している。

 こんな時にこのような不祥事を許せる訳がない。

「殿、落ち着きくだされ」

「お慈悲を、お慈悲を」

 そのとき信長に付いていた重臣の柴田勝家と森可成よしなりが泣き叫ぶように信長を止めた。なんとか二の丸内にある一室に信長を留めると、利家がどこに行ったか探すように命じた。

 信長、部屋の中に入るもウロウロと歩き回るだけで座ろうともしない。勝家と可成は息を潜めるように報告を待っていた。

「申し上げます。前田又左衛門またざえもん、すでにこの城を出奔したとの由にございます」

 しばらくして小姓の一人佐脇さわき良之よしゆきが部屋に入り、震える声で報告した。

「お主、逃がしたか……」

 刃先のような冷たい声だった。佐脇良之は苗字が違うが、利家の実弟だ。

「と、とんでもございません」

 裏返った声で良之は言う。間の抜けた声だったが誰も笑わない。

「では誰が逃がした。知っておろう」

 蛇のような、捕食者の眼光だった。佐脇良之はそれでも少し逡巡したが、観念したように話し出した。

「小者の、藤吉郎でございます」

「藤吉郎?」

 ああ、と信長は小さく声を上げた。あの『猿』か。

 思いもしない名が出たため、信長は少し驚いたが、すぐに別の興味も湧いてきた。

「猿がどうやって逃がした」

「は、この挙を決行するとき、最初又左またざ殿はお屋形様の前で拾阿弥を切り、自分も死ぬと言いました」

「……」

 あの男ならそう言うだろう、と信長は思った。しかも奴は言うだけでなく実行していたはずだ。では何故?

「そのとき、どこで聞いていたのか藤吉郎が又左殿の前に走り寄り、『勿体ないことをおっしゃるな』と言ったそうです」

「勿体ない?」

 信長、思わず言葉を返してしまった。信長の左右に控えている柴田勝家、森可成も不思議そうな眼を良之に向けている。

「どういうことか、と又左殿が聞くと、そなた様はお屋形様にとって今後最も必要になる家臣のお一人。あんな御仁のために命を粗末にしてはいけませんと」

「ほう」

 やるな、と信長は猿のような男の顔を思い浮かべた。

「しかし、それでは男が廃る、と又左殿が申せば、切ることはお止めしませぬ、と藤吉郎は申しました。しかし、又左様が死ぬことはお屋形様への不義となり申す。お屋形様がお悲しみになられることをやってはいけません。藤吉郎のその言葉に又左殿の膝がガクリと折れ申した」

「又左殿は親兄弟に絶縁状を送りました。しかし妻のまつ殿だけは聞いてもらえず、やむなく途中で落ち合うことにしたそうです。城を出たところに馬を手配し、待っていたのは藤吉郎だということでした」

 そこまで言うと佐脇良之は平伏した。当然身内である彼も前から知っていたということを自ら告白したようなものだ。自分が斬られることも覚悟しているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る