第44話 政綱の説得、信元の思惑

「……え、」

「実は主の命で、それがしの手の者が偽の書状を書き、今川の手に渡るようにしました。結果は貴殿もご存知の通りで」

「はあ」

 政綱、噂を広げたのも自分たちだ、とは言わない。そこまで言う必要はないと考えた。

「で、あの噂ですが、興味深い広がり方をしましたな」

「……」

「ご存知ですか。あの噂には二つの解釈がありました。一つは織田にコロリと騙された今川はたわけ者だという解釈」

「……」

「そしてもう一つ、今川はこれ幸いとわざと殺したというもの」

「……」

「つまりは尾張も三河も自分の息のかかった家臣に領有させたいということですな。確かに鳴海城は岡部五郎兵衛が城主となり、大高城も城主だった水野大膳だいぜん殿を追放。一説には抹殺されたとも聞いております」

「……はい」

「主も申しておりました。市井の噂も侮れぬものよと」

 ここまで言うと簗田政綱は口を止めた。水野信元は腕を組み、目元にしわを寄せている。

 ――このくらいかな。

 と政綱は見た。奏上役や交渉役の経歴が長いため、そのあたりの呼吸は心得ているつもりだ。

 信元は口元に手を当てて、じっと黙り込んでいる。

「しかし、モノは考えようでしてな。これは好機ともいえます」

 政綱の一言に信元は眼だけを向けてきた。

「……と、いうと」

 政綱が次を言おうとしないので、信元が発言を促した。

 政綱は目に力がこもった表情となり、

「つまり、織田家に付くことを鮮明にするいい機会ということです」

「……ほう」

「いや、別に某が織田家の者だからという訳ではござらぬ。まず、どちらにもつかない場合ですが、今川は貴殿のことを織田方と見ているのは必定。なにせ村木の一件もありますゆえ」

 政綱の言う一件は、後に村木砦の戦いと呼ばれている。信長にとっては当主になって初めて今川家と直接対決したいくさだ。


 事の起こりは今川家の三河侵攻だった。天文二十三年(一五五四)一月、織田方の重原城(現愛知県知立市)を落とした今川勢は、余勢を駆って水野信元の小河城を攻略しようとし、二キロほど北の村木(同知立市)という地に砦を築いた。

 当時信長の居城は那古野城だった。急を聞いた信長は美濃の斎藤道三に城の抑えを依頼し、自身は嵐の中を舟で小河城に急行した。

 村木砦の戦いは熾烈を極めたという。織田軍の度重なる猛攻に今川勢は屈し、降伏した。

 この戦では今川だけでなく織田方の戦死者も多く、信長は子飼いを多く失っている。

 後にこの戦いの報告を聞いた道三が言ったという。

「凄まじい男だ。隣には嫌な奴がいるものだ」


 信元は「ああ」と声を出した後、やや間をおいて言った。

「確かに」

 信元が思っている以上に今川は水野を織田方として見ているだろう、ということを把握したようだ。

 信元にすれば五年も前の話だ、という気分がある。当時にしても、だからといって織田の支配下に入ったわけではない、と思っていた。

 織田としてもあのときは水野が滅ぼされることで、その領地はもちろん鳴海・大高、熱田の近辺までが地続きで今川領になる恐れがあり、だからこそ援軍に来たのだろう、と考えている。

 政綱にしてもその気分は分かる。しかし今川の立場なら信元の気持など忖度する意味はない。

「もし貴殿がこの状況の中、旗印が鮮明でなければ、今川はこれを機会に襲ってくるとは思われませんか」

「……つまりは、ここが最初の戦場いくさばになると、」

「それはそうでしょう。尾張を攻めるという事は、ご当家の領地を通り過ぎるということです。いつ背後を突かれるか分からない城は先に潰しておくのが必定」

「……そして、織田の援軍は来ないだろうと、そういうことですか」

「今川はそう考える可能性がありますな。まず今川がこの地を通る時、清須はそれどころではないと目算するでしょう」

「……」

「我が織田家にしても今回はそうです。こんな時に手を貸さない水野家に、援軍を出す必要がない。寧ろこの小河城が囲まれたとすれば、その間に鳴海大高の付城まわりをさらに固める猶予が出来ます」

「……確かに」

「また、今川に通じるなら貴殿の弟君の藤九郎(信近)殿が周旋を図られるのでしょうが、今川が応じる可能性は高くはないと思いませぬか」

 弟の信近が城主の刈屋城(現愛知県刈谷市)は、小河城のすぐ東に流れる境川の対岸にある。つまり刈屋城は三河で、信近は今川家に服属している。

 そのような家は当時特別ではなく、例えば今川家臣の葛山氏なども武田、北条と縁を通じている。

 つまり梁田政綱は、今川に連絡する道があっても、そううまくはいかないだろうと言っている。

「今この時期に今川に鞍替えすることも得策とはいえませぬ。安く見られます」

「……でしょうな」

 もし今この状況で今川に降ったとしたら、三河松平よりも下の待遇で酷使されるだけだろう。場合によってはわざと拒否され、侵攻のついでに制圧されるかもしれない。

 つまり、三河を掌握した今川にとって、今の水野は戦略的にも政治的にも価値が低いということだ。

「しかし、貴殿に付城を造っていただくことによって、今川にとっての貴殿らの値が上がるかもしれません」

「はっ、……何故なにゆえ?」

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